2009年7月 8日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第23回

Img_navi_t琉球の家系図再生とユタ

 

  沖縄県立首里高校「養秀新聞」元編集長 玉城 朋彦(1972年-74年)

 昨日の事だが、大安吉日でもあり位牌を更新した。我が家の位牌は、これまで日本式の縦長の位牌であった。表面には「玉城家先祖代々御霊」と記されていた。並んでいたのは祖母の位牌と両親の位牌。あわせて3本の位牌が並んでいた。このような日本式の位牌はむしろ稀である。わたしは昨年夏から玉城一門の家系図の作成を中心になって推進した。元祖は12世紀まで遡れたが、この「家譜」再生過程でも、先月触れた「ユタ」の助言を戴いた。玉城一門の家譜(家系図)は、第2次世界大戦・沖縄戦で米軍艦砲の直撃を受けて、消失した。古老の証言によればその家譜は厚さが20センチ程もあり、木箱に納められていたという。その家譜の再生では、明治時代以降の戸籍制度整備に伴い、我が家で言えば那覇玉城家初代、私の五代前より以降は戸籍がある。問題はそれ以前の日本の江戸時代にあたる琉球王朝時代の系図であった。琉球王朝には統治機構の中枢=首里城に「系図座」が設けられていた。士族の各家は系図の作成を義務付けられ、一部は当家に、もう一部の副本は王城内系図座に保管された。江戸幕府の大政奉還以後に琉球王国は強制的に「琉球藩」に編入され、さらに置県で「沖縄県」とされていく。この期間は「琉球処分期」と称される。系図座の機能は清国との進貢関係の中で整備されているが、この戸籍制度の原点は江戸時代の日本にも無い、先進的な戸籍記録制であったともいえる。明治以降も家譜は家の史料として残るのだが、その殆どは沖縄戦の戦火に消失していった。

 防空壕に持込んだり、疎開先へ持っていった家は現存するが、多くの家は、我が一門同様消えたのである。記憶と残された資料を紡いでいくという家系図再生過程で大きな力になったのがユタの霊感、あるいは霊力であった。玉城家の代々の職位は、証言等に見事合致して確認され、地方に広がった一門の経緯も判明した。つまり、氏名・家紋・職位・階級は古老の証言や史料の裏付け通りの傍証を得て行った。

 一門各家の代表ら約20人が並ぶ中で、ユタの男性は仏前で先祖からの言葉を聞き取るものだと思い、仏壇を前に少々緊張していた。しかし、ユタが対話を始めたのは仏壇の先祖ではなかった。台所に祭られている「火の神」(沖縄語で「ひぬかん」)で聞き出していったのだ。日本一般家庭で言えば、台所のコンロに該当する位置に、昔はカマドがあったと思うが、その「火」の神を拝むのだった。「火の神」こそ、この家の現在と過去(つまり先祖)をつなぐ窓口になっているというのだ。ユタは火の神に向き合って、語りかけながら並んでいる先祖に対して、次々名前を聞きだしていった。これは事前には伝えておらず、全て合致した。明治以前の先祖の名も次々判明していった。親戚一同には驚きの表情が溢れた。

首里城明け渡し後、那覇に下った私の先祖も明解になり、簡素な「玉城家先祖代々の霊」という位牌から、螺鈿漆器の琉球伝統の位牌に昨日交換した。五代の合計14名の氏名が全て並んでいる。私は今日午後満たされた午睡に浸った。(2009年7月6日記)

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2009年6月10日 (水曜日)

沖縄から/沖縄へ 第22回

Photo_2沖縄のユタ
               
沖縄県立首里高校養秀新聞元編集長 玉城 朋彦

 
 沖縄には霊感を持つ「ユタ」とよばれる霊能者が多くいる。男性の場合も女性の場合もあり、年齢は種々だが大方は50歳代から60歳代、しかし自治体も研究機関もその実数を把握していない。科学万能の時代だが、テレビ番組「オーラの泉」の美輪明宏や江原啓之氏らの番組は好評で視聴者も多い。あるいは青森の「イタコ」という先祖の霊を呼び寄せて、子孫へのメッセージを伝える風景も記憶のある方も多いはずだ。

 沖縄のユタは、日本の江戸時代に相当する沖縄が琉球王国であった近世の古文書にも登場するから沖縄では古くから存在していた事がわかる。当時の琉球王府は人民が風習であるユタの御託宣に頼る事を禁止することを命じたという。

 私自身の体験でも何人かのユタと出会った。最初は1986年ごろの事だ。毎日のテレビ番組に出演していた頃、番組への感想と激励を寄せてくれる男性のユタがいた。年の頃は50歳くらい。ちょうどその頃取材で人探しをしており、手掛かりが尽きたときに、そのユタに会いに行った。「藁をも掴む思い」であったが、よい答えは貰えなかった。逆に「私はユタとしては、まだ低い方だから」といってランクの高いユタを教えてくれたのだった。後日、カメラマンとともにその男性ユタを訪ねた。控え室には早朝から順番を待っている人たちが並んでいた。ビデオカメラを上着で隠していたのだが、そのユタは部屋に入るなり「ここにカメラを持っている人がいます、今日の判事(占い)は中止します」と言い残して出て行ったのだ。私は並んで順番を取り待っている人たちに悪いと思い、辞去した。しかし、カメラを見られた様子は無く、まさに見抜かれたのだった。またある日は、那覇市内の女性のユタを訪ねた。40代で琉球の着物を着ていた。相談すると、彼女は急に立ち上がって踊りだした。そして「探している人は中部読谷村の喜納(きな)という集落に住んでいてブロック工場を経営している」という。時を移さず、ユタ自身も車に同乗してもらい喜納に向かった。するとどうだろう、喜納のバス停の近くにブロック工場があるではないか。驚いて早足で門を入りドアのチャイムを鳴らした。その家の主に事情を話したところ、戦時中に行方不明になった兄弟はいないという。ひとりだけ死んだ弟がいたが、避難した田舎でちゃんと葬儀をしたという。そんな会話をやりとりするうちに、ユタの彼女は助手の車で姿を消した。そこでわかったのだがユタにもランクがあり、高い評価を得ているユタを訪ねないとだめだという言う事だ。

 先述の男性ユタには、後年訪ねる機会があった。一言でいって「当たる」のである。和室で順番に座り、前者が終わると、ユタの座るテーブルの前に寄っていき、相談するのだが、私達3人が前に寄ろうとした時、彼は盛んにノートらしきものに何か書いていた。今終わった人たちのまとめでも書いていると思っていたのだ。しかし、私達がテーブルの前に並んで座るのを待っていたかのように、私達の名前を当てるのであった。もちろん、事前には番号札を貰ったのみで、名前も住所も伝えていないのに、である。彼はあるケースで、その家の台所に別の位牌が置かれているのを、見る事も無く言い当てた。(つづく)

*参考HP

ナビィの恋OKINAWA ロケ地を巡る旅

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2009年5月13日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ・第21回

Naha_2   大型書店の立地と地元書店の消滅

         

          沖縄県立首里高校養秀新聞元編集長 玉城 朋彦

                   

連休直前に沖縄の県庁所在地である那覇市の中心部に、大型書店「ジュンク堂書店」の那覇店がオープンした。書籍数は120万冊で池袋店に並ぶ冊数だという。立地場所はこれまで大型スーパーダイエー那覇店が出店していたビルで、全国的なダイエーの店舗撤退の一環政策で那覇店も閉鎖されていた。立地場所は駅のすぐそばで、中心商店街に近くおそらく県内有数の好立地だ。私も既に3度行き、各分野の書籍を見ているが、例えばマスコミ二ケーションの書籍では新旧良く揃っている。淳久堂は兵庫県神戸市が本拠だったと記憶するが今回の進出に刺激されたように香川県高松市に本社のある宮脇書店も一度撤退した那覇本店を再開店させた。こちらは70万冊の書籍数。淳久堂に比べれば少ないが地方都市の店としては大きい規模だろう。宮脇は沖縄県内にも複数の店舗を持っており、そのいわば本拠地の開店だが、ライバル意識も強いようだ。両社の社長が直々に開店のテープカットに出席した。

 両店の事前調査については未知だが、国内で経済成長の期待できる地域についてのリサーチで、伸びる可能性のある地域は東京と沖縄だけだという調査結果も報道されたように、観光客の堅調な推移は沖縄県民人口137万人プラス530万人の市場規模を生み出しており、消費への期待が大きいのかもしれない。

 一方、地元書店はどうか。かつて「大規模店舗規制法=大店法」ができてダイエーなど大型スーパーの各地への進出に制御があったが、沖縄は重い書籍にとって流通コストがかかり過ぎ、鹿児島からの距離とあわせて、採算点割れが相次いだ。私が育った地域には日本復帰前に数百メートルの通りに10軒を超える書店が並んでいたが、現在ではその書店は全て消えた。輸送コストや買い取り制度、そして県民の購買力の低さ(県民所得は全国最下位)が原因かもしれない。

 客で溢れる淳久堂には各年齢の人達が本に見入っている風景がある。コマーシャリズムによって作り出された、例えばサッカーブームに誘惑される少年らの興味を活字に引き寄せていければ成功だろう。市場の未来は少年少女たちだからだ。コミックに飽きた彼らが一般書籍のフロアーに流入してくる姿を期待しよう。

 国内有数の書籍を並べた書店の進出。私には嬉しい限りだが、経費が売り上げを上回らないか心配だ。一度閉めた宮脇が再開店したのが企業間競争だとすれば、一方が撤退するともう一方も追随するのではないかと懸念するのだが、さて。                     2009年5月8日記)
「追記」 
『来店者は初日が3万人、2日目が2万5千人。3日目も3万人を記録し、
淳久堂書店の事前予測値を多きく上回り、もちろん売上げも予想以上』だと
いう情報が入ってきた。

*(画像は、那覇経済新聞から引用)

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2009年4月 8日 (水曜日)

「沖縄から・・沖縄へ」第20回

Photo 花粉症からの逃避地としての沖縄・
              リゾート
=ウェディング地の沖縄           

          
          
沖縄県立首里高校養秀新聞元編集長 玉城 朋彦

1972年-1974年)

今年も沖縄への観光客の入りが順調だ。もちろん昨年秋の金融危機以来の景気減速で、台湾や韓国、それに中国と米国などの海外客は13%の減少。国内線も減少しているものの割合は横ばいかもしれない。1割前後だとすると、世界的な景気の悪化という状況からして「良い」ほうかもしれない。「沖縄だけが景気の影響を受けてはいない、むしろ今このような時こそ積極的に誘客運動を展開すべきだ」という強気の姿勢が関係者には多い。それだけ、自信があるということだろう。

★花粉症からの逃避地

国内客の最近の動向としては、春の花粉症の時期を迎えて、花粉からの逃避行が目立っている。春休みを兼ねて、杉花粉の飛散が収まるまで杉花粉の無い沖縄で休養するというものだ。沖縄には花粉予防のマスク姿は皆無だ。この逃避には年齢の偏差はない。

★リゾート=ウェディング大幅増加

もうひとつの動向は、リゾート地沖縄での結婚式、いわゆる「リゾート=ウェディング」の増加だ。沖縄県観光文化局の統計によると2008年の沖縄でのリゾート=ウェディングは目標とした8100組を大幅に上回り9001組となった。23.6%の増加だ。現在ではかくホテルのチャペル(教会)も整備されて、16チャペルになった。シーズンは秋の場合10-11月、春は3-4月に多く、暖かい冬という1月の挙式も増えてきている。チャペルでのウェディングと並んでビーチでのウェディングも増加傾向にある。東京や関東からのケースが最も多く、逆に四国や中国地方のケースは少ないようだ。平均参列者数は16人で新郎新婦をあわせて18人が平均。年間合計で約16万2千人が来県しているという。費用は挙式のみで約36万円。披露宴+挙式で88万円が相場。観光客1人当たりの県内での消費額が7万2千円と推定されるから、このリゾート=ウェディング関係で少なくとも150億円と推計される。新郎新婦の滞在日数は4日、参列者は3日間滞在していると予測される。問題は天候で、不順の場合のケアだろう。いまのところキャンセルはないという。

  海外プロモーションの活発化

海外からの誘客活動も活発だ。先にイギリス・ロンドンでのキャンペーンが終わったが、3月11~15日にはドイツ・ベルリンでの国際ツーリズムマーケット展に出展、190カ国1万社に及ぶ参加企業に沖縄をアピールした。続いて17日には中国・北京で「沖縄観光セミナー」を開催。北京の主要旅行社18社、メディア5社45人に沖縄を売り込んだ。欧州ではさらに19日~22日までフランス・パリでフランス最大の見本市「MAP2009」に出展。フランス滞在の沖縄県人の協力でフランス語で観光をアピールした。パリではJTBパリ支店の協力で「シニアサロン見本市」も26日から開催されたが沖縄の長寿研究で有名な鈴木 信教授特別講演して、沖縄の長寿と食文化の関係をアピールした。沖縄のブームは海外に拡大しそうである。        (2009年4月7日記)

【参照資料HP】

沖縄長寿科学研究センター

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2009年3月11日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ  第19回

Photo 沖縄の地域発展は県外出身者がリード

   沖縄県立首里高校「養秀新聞」元編集長 玉城 朋彦

 沖縄の発展はもちろん県人が主役であるべきだが、多くの人たちが沖縄の環境や文化に魅せられて移り住み、地域の様々な課題に向き合っている姿を見ることが増えている。其のいくつかの事例を紹介しよう。

    那覇の中心地域の市場と商店街の活性化に取り組む事例
・・・30歳、高知県出身者。

 沖縄も他府県同様に都市の中心市街地から人口の郊外流出が続き、旧来の古い市場とその周辺の商店街が力を弱めている。かろうじて明るいのはNHK朝の連続ドラマなどの影響で、観光客が従来の観光地に飽き足らず、一般市民の台所であった市場や商店街を訪れて消費を伸ばしていることであろう。問題は地元の客が少ないことである。地元の人間は結婚等で独立し、世代交代も重なって郊外に移り住み、ショッピングも、郊外型大型ショッピングセンターにマイカーで行き済ませるというパターンが定着している。普通だと青息吐息なのだが那覇に関してはどうにか維持できているのかもしれない。地元人不在の観光客向けの市場や商店街に、もう一度地元客を呼び戻そうという取り組みのキーパーソンは、高知県から琉球大学に入学し都市計画を専攻した佐々倉怜於君(30歳)だ。彼は卒業後も那覇に残り、「牧志市場」(まきしいちば)と周辺の人間とネットワークを形成。『まちなか現在』というタウン誌を独力で発行し、地域メディアの役割を果たしている。中小零細の商店主たちの大きな力になっているのだ。掲載広告料は微々たる額だが丹念に歩く姿には敬服している。地域のメディアの原点を見る思いだ。

    公共交通のバスを見直す事例
・・・28歳、東京都出身者。

 鉄道の無い沖縄には数年前にモノレールが開通し、大方の予想を裏切って単年度黒字の運行実績を更新し続けている。しかし、区間は那覇空港から首里までの一本であり、やはり代表的公共交通はバスに違いない。だが、そのバスは度重なるバスストで市民の心を失い、利用者は減少していくばかりだ。東京等の「私鉄大手」が春闘をリードしていた頃、私鉄の無い沖縄ではバスが先導的役目を持たざるをえなかったのではないか。ストが続き市民はこぞって運転免許の取得を競い、その結果、沖縄には中古車という格安のマイカーが溢れている。この状況に視点を据えたのは東京出身の谷田貝哲君28歳。早稲田の理工学部時代の研究テーマが「バス」であった彼は、東急バスを経て来沖、県内バス4社の緻密な路線図を作成し『沖縄バスマップ』として発行した。マイカーからバスなど公共交通への移行が地球温暖化に繋がるCO2排出の抑制になるとして環境省の予算をもらっての作業だ。その過程でバス各社に協力を求めたのだが、県バス協会の事務局長は「もう、バスの時代は終わるから、無駄なことをしない方がよい」とたしなめられたという。公共交通のバスや路面電車が欧米各地で復活している現状をまったくわかっていないと彼は嘆いていた。バスの未来を見通せない人間が事務局長らしい。

    ダイビングをする親の子供たちを預かる託児所つくりの事例
・・・36歳、東京出身者。

 沖縄を訪れる観光客は順調に伸び、人口130万人の島々に500万人以上の観光客が訪れている。修学旅行の少年少女たちから退職後の移住志向組まで満遍なく好まれている地域が沖縄であろう。この季節にはプロ野球9球団がキャンプを張り、近年韓国のプロ野球もキャンプで訪れるから新しい観光資源である。ファン・取材陣が多いのだ。3月には花粉症の皆無な地域として注目を集めてきている。しかし、夏場がオンシーズン。若者やファミリー層はやはり主力である。今週番組で迎えた女性は30代後半だが、彼女も沖縄が好きでたまらず、移住してきた。彼女はダイビングのインストラクターなどもやっていたのだが、現在はマリンスポーツを楽しむ若い夫婦の幼児(おさなご)を預かるビジネスをはじめた。子供たちは、親がダイビングやジェットスキーを楽しんでいる間、渚で貝や熱帯魚を学ぶ。いわば「海の学校」である。子供を安心して預けておけるのが魅力であり、今後沖縄本島から石垣島にビジネスを広げるプランを持っている。

この他にも多くの他府県出身者が沖縄の魅力に惹かれて移り住み、多様な地域づくりに向き合っている。地元の若者はどこに行ったのか。
                     
(2009年3月5日稿)

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2009年2月11日 (水曜日)

沖縄から/沖縄へ 第18回 

Ryukyu1_2 Minami_2 Haemain 沖縄の夕刊も廃止決定

   

琉球政府立首里高校『養秀新聞』編集長 玉城 朋彦

 

 沖縄は本土と遠い距離がある。九州からの島づたいに南西諸島は台湾に至るのだが、隣県の鹿児島に行く人は殆どいない。現在の航空機による移動が未発達だった戦後、沖縄の人も、逆に本土からの人たちも船旅だった。それは沖縄が日本の一県になった1972年頃までだ。復帰によって外国に行くときに使うパスポートが不要になったことから観光客は増加していく。沖縄から鹿児島に行き、更に鉄道で東京や大阪に行くより、直接東京に行った方が経費も掛からず、時間も短縮できるからだ。現在では鹿児島に行く人など希少種の世界遺産みたいなものである。なにやら東京の中央集権化を象徴するような事例みたいでもある。

 東京に目が行きがちな沖縄だが、こと新聞に関しては地域紙の天国である。第二次大戦後日本で無くなった沖縄だから、朝日も毎日も普及することはなく、かといって言語は日本語だから英字新聞が普及することも無かった。戦後の沖縄をリードしてきたのは『琉球新報』と『沖縄タイムス』という二つの地元紙であった。灰燼に帰した島の復興を記し、朝鮮戦争の勃発に前後しての米軍による民間地の強制接収に抗する住民の様子お伝え、その後の冷戦時代の緊張を住民の側から報道し続けた。あるいは廃墟の中から立ち上がる住民に安らぎをもたらした沖縄のおどり=琉球舞踊や各種芸能の復興や人材育成、陶器づくりや染織などの民芸の復興も、すべて両新聞社が競い合った。新聞が地域の復興と発展の様子を伝えるだけでなく、自ら主催者になって復興をリードしてきたといえる。日本への復帰運動の牽引車だったともいえるだろう。

 日本復帰から37年の歳月が流れ、沖縄は完全に日本の一県になった。昨秋の金融危機は沖縄経済にも影響を及ぼした。この連載で鹿児島の南日本新聞の夕刊廃止の決定を書いたが、沖縄をリードし続けた両紙も3月から夕刊廃止を決めた。新聞の再編、全国紙の現地印刷化が各県で進行中だが、既に『琉球新報』は『日本経済新聞』の現地印刷を昨秋から開始した。

もう一紙の『沖縄タイムス』は『朝日新聞』と極めて近い関係にあるが、現地印刷の受注はどうなのだろうか注目されている。つまり、全国紙の地方紙吸収の懸念だ。もしそうなると、独自の文化や歴史に根ざした報道を競い合ってきた両紙は、その個性を失うのか。あるいは第二次大戦前のように両地元紙の合併があるとすれば「一県一紙」になるのだろうか。そうならば「地域の歴史や文化」を伝える機能は弱体化の道を歩みはしないか、極めて懸念が強くなってしまう。ウォール街の金融屋の犯した罪=強欲資本主義の罪は深い。

(2009年2月6日記)
画像:「2005年資料展-琉球新報記事」

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2009年1月 7日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第17回

Photo_2   混迷期に入った新聞・放送

             
    玉城 朋彦 沖縄県立首里高校『養秀新聞』元編集長

                                
 金融危機以来の世界的混迷は、日本の政局における自公政権の終焉かあるいは民主党主導による政権交代という主題の道筋にさらに混沌とした状況をもたらしている。国民が生活に苦しんでいる時に総額2兆円の給付金を支給することしか考え出せない政府の無能ぶりは、国民に「政治は信用できない」という現実をあらためて教えてくれている。

 政治が信頼できるように提起するのがメディアであるはずだが、メディアもまた、混迷の道にはまり込んでいる。その混迷は例えば、断片的な情報を整理すれば、日本を代表する全国紙朝日新聞が赤字に転落したということ。地方紙では鹿児島県の県紙である南日本新聞が夕刊廃止を決定というニュースも入ってきた。サンケイの夕刊廃止もあったことで、驚くことでは無いと言われそうだが、地方の有力紙にまで経営の根幹を揺るがす不況と、新聞離れが起きていることに地方のメディア関係者は動揺した。目を海外に転ずれば、米国の代表的新聞のひとつ「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙が、紙に印刷して情報を発信するという古典的報道形態の中止を発表。同紙はこの春以降、ニュース報道をインターネット上の報道に限定すると発表した。すでに「新聞」の時代の「終焉」の始まりだという気がする。市民はニュースをインターネットで読む時代に突入している。

 では、放送はどうであろうか。民放4大ネットワークのひとつ日本テレビ(NTV)の赤字決算が公表され関係者を驚かせたが、日本民間放送連盟の経営分析調査によれば日本の民間放送の多くが利益を出せず赤字転落をしているという数値がでている。もちろん沖縄のテレビ局3局も赤字である。テレビの場合は不況によるスポンサーの減少、インターネットの普及による視聴者離れのほか、アナログからデジタルへの機器の交換への過大投資による利益減少がある。特に地方局の場合、冒頭に記した経済危機と地域産業の関係や不況による雇用問題など目前の問題を考える番組を制作する体力を無くしている。売り上げが減れば制作予算の割愛を余儀なくされるからだ。

 沖縄は第2次世界大戦後、27年間にわたる米軍による統治があり、それへの抵抗と自治の要求、復帰運動のうねりを地元紙は伝えてきた。戦時下の新聞統合を経た後、米軍統治下で沖縄タイムス琉球新報という2紙が競争し運動を進化させてきたという歴史がある。全国紙はこのような状況もあり沖縄へは不可侵の状態であった。今後2紙が覇を競って地域発展に貢献し続けていけるか? 「この10年が最後」という説も出ている。日本経済新聞が昨年11月から琉球新報社の輪転機を使って沖縄現地印刷を開始したが、この読者数は4倍の1万人に達するという。2紙がそれぞれ20万部という数字からすると大きくないように思えるが、地元紙の終焉の始まりに見えないことも無い。テレビも同様だ。地元のアジェンダ(課題)が多いこの時期に、制作費は削減され可哀想である。とくに沖縄は不況・金融危機の影響・デジタル移行投資という経済環境の中、最大の米軍基地という課題について考究する番組が作れないのである。世紀の変わる時に局を離れた私は、後輩の苦悩を見る機会が多い。地元の新聞2紙の合併、テレビ局のキー局による子会社化。地域の声を発信し続ける機能は希薄になり、金太郎飴のごとく北海道から沖縄まで同じ内容のニュースが報道されるという最悪のシナリオが描けるかもしれない。それは個性の剥奪と、その裏返しの中央集権による統治に繋がる。初夢は正夢。                                                                                                      

                 (2009年1月5日)

参照資料-日本新聞協会HP

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2008年12月10日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第16回

Photo_4 2_4

筑紫哲也さんと沖縄での番組の覚書

     玉城 朋彦(首里高校「養秀新聞」元編集長)

 筑紫哲也さんが亡くなった。沖縄の放送マンとしては、最も多くの番組を一緒に作らせて貰ったし、大学院では教授と院生の関係でもあった。いくつかの事実を記そうと思う。
筑紫さんが放送で沖縄にかかわったのは25年前の1884年のことだ。当時、東京放送(TBS)ラジオで「筑紫哲也のニュースジョッキー」という30分番組を担当されていた。その番組で沖縄特集を提案されたのだった。日本に復帰して12年目の沖縄の現状と市民の表情を伝えようというもの。テレビ報道局にいた私が担当に指名されラジオに協力した。那覇の市場を端から端まで歩き、基地の見える丘に行き、ラジオスタジオでの生放送になった。筑紫さんと現地琉球放送の私の対話で番組は進行。復帰に期待したものの米軍基地は相変わらずのさばり、県民は経済の自立に程遠い現実がそこにあった。時折見せる筑紫さんの表情は明らかに溜息をもらしていたが音には出さなかったように思う。目には瞬間に怒りを宿していた。

 筑紫さんは1968年から69年まで『朝日新聞』の沖縄特派員として那覇支局を拠点に取材活動を展開した。『沖縄タイムス』本社にあった支局には、タイムスホールで催される琉球舞踊や琉球古典音楽の演奏会の音声が流れてきたのであろう、あるいは展示用のスペース第二ホールでの壺屋焼の陶芸展や染色展にも足を運ぶことが多かったという。本土復帰を前にした沖縄現地の苦悩を取材されて、ふと琉球の文化にほっと一息ついて煙草をくゆらせていたのである。『沖縄タイムス』は国内唯一の地上戦で灰燼となった琉球文化の復興に熱心であった。筑紫さんの沖縄びいきの原風景はこのあたりに見出せるのではないだろうか。
 
TBSが『筑紫哲也ニュース23』を始めてからも沖縄からの放送が続いた。当時も私が担当にされて、最初は摩文仁から平和祈念堂観音像をバックに在日米軍基地の75%が集中する沖縄県民の声をつたえた。このときもラジオのときと同じく全部沖縄から生中継、私も地元局のキャスターとしてレポートした。復帰20周年の夜は復興した琉球王国の首里城正殿前からの全生中継。あるいは終戦50年の際には大田元沖縄県知事の発案で出来た「平和の礎」からだった。二人並んで「平和のともしび」を背景にレポート。軍基地労働者組織の「基地反対だがメシの種の基地でもある」という苦渋の表情を私がレポートし、筑紫さんは“多事争論”のコーナーで全戦没者の名が刻まれた礎のあいだを歩いてメッセージを送った。
 
そのほかにも、私が沖縄のスタジオから報告という形で送ったレポートもあった。例えば第二次大戦中の八重山でのマラリヤ問題。中野学校出身の兵士は波照間島の住民を敵国のスパイになる恐れがあるとしてマラリヤが蔓延する西表島に強制的に移住させたのだ。渡った西表で多くの住民は命を落とした。その生存者の確認と訴えを報告。あるいは、現在の日米関係の原点ともいえる、ペリー提督が艦隊を率いて浦賀に来航して江戸幕府と開国交渉に臨むが、その時のペリー艦隊の拠点が沖縄の那覇港であった事実や、当時発生したレイプ事件の報告等々。そのほかにも対談や座談にも迎えたが割愛しよう。
 
最大の財産は、東京放送の新世代に金平現アメリカ総局長をはじめ多くの“沖縄びいき”を誕生させたことかもしれない。  
                (2008年12月8日記)

参照資料沖縄県平和記念資料館】(平和記念公園案内図

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2008年11月12日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第15回

52_2沖縄への核配備の事実が明らかに

       沖縄県立首里高校「養秀新聞」OB玉城 朋彦

沖縄の米軍基地をめぐる驚くニュースをお伝えしよう。
広島原爆200発相当核配備されていた―1958年沖縄カデナ」
広島に投下された原爆約200発分に相当する威力を持った戦略核爆弾などが、1958年当時のカデナ基地に配備されていたことが米空軍秘密指定文書『米戦略空軍の歴史』で明らかになった。この文書は10月20日迄に秘密指定を解除された。ネット上で公開したのは反核運動に取り組む米科学者連盟(FAS)のハンス・クリステンセン氏だ。沖縄タイムス紙の報道によって沖縄県民にも伝えられた。58年は第二次台湾海峡危機で中国と台湾が金門島をめぐって武力衝突した年。米軍首脳部は台湾政府を支持し中国本土への核爆弾投下作戦を立案し、カデナ基地から出撃が計画された。同書によるとカデナには3-4メガトン(1メガトン=100万トン)の威力を持つ戦略核爆弾WK39と、8160キロトンの威力を持つWK6の2種類が配備されていたという。アイゼンハワー大統領は核の使用に慎重で統合参謀本部議長の核爆弾投下計画を却下したという。
 
この事実は米空軍三沢基地を抱える青森県の県紙「東奥日報」の斉藤光正記者も既に把握し報道。斉藤記者の近著『在日米軍最前線』(新人物往来社)で報告している。三沢の軍関係者への取材と米国取材の成果だろう。一方のタイムス報道の出典はネット。いずれにせよ「カデナに核があるといううわさ話」は事実だったということになる。その50年前に配備された戦略核は、その後撤去されたのかどうか、そのあたりの情報公開は無いようで、また両紙の続報もまだ出ていない。沖縄県民はこのような現場で生活していたことになる。
 
台湾海峡危機の後、米軍の視線はもっぱらベトナムに向いベトナム戦争が始まっていく。カデナからは核搭載可能のB52戦略爆撃機が連日ベトナムへ発進。沖縄は出撃基地になった。戦略核は、このような時系列を見るとき、撤去されたとは考えにくいのではないか。
 
1968年カデナ基地滑走路でB52が墜落炎上する事件があった。あの頃も核の存在が指摘されたが、確証は得られなかった。沖縄県民は米国の情報公開制度でのみ「日常の生活と基地の共存」の怖い真実を知る。
                  
(2008年11月7日記)
写真:「米空軍カデナ基地からベトナム戦線に向う戦略爆撃機B-52」

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2008年10月 8日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第14回

Metrolink_tram 「公共交通機関が無い沖縄」
                         玉城 朋彦(沖縄:首里高OB)            

 沖縄には電車が無い。数年前に交通渋滞の緩和を目的に那覇空港から首里城までの区間で沖縄都市モノレールが開業したのみである。第二次世界大戦で日本国内唯一の地上戦が行われた沖縄は、戦争で3本あった鉄道をすべて失くした。戦後は米軍統治が27年続いたが、「自動車の国」アメリカは鉄道という社会資本の復興をすることはなく、戦後の沖縄はシボレーやフォード、ビューイックなど米国車が走り回る車社会であった。私もその中で育ち、プリムスが好きな車種である。当時も日本製の車は輸入されてきたがダットサン・ブルーバードやトヨペット・クラウンのデザインも無骨で、小型の車は日本人の肉体同様にチンケだと思えた。1972年に沖縄の施政権が日本に戻るが、その頃に沖縄本島縦貫鉄道の建設案が出た。しかし当時の日本の国鉄は赤字で、国労や動労の組合も強力であったためか、沖縄の新出発に際しても「鉄道の復活」は採択されず「沖縄高速自動車道」が建設された。27年間の米軍統治とバス労組の続くストは県民にバスとの接点を失わせていき、県民は生活を支える足を公共交通に見出せなくなっていった。因みに我が家の向かいも隣家も自家用車を2台所有しているが、1家庭に3・4台も珍しいことではない。エンゲル係数ならぬ「車係数」はおそらく全国一であろう。これも米国統治時代の遺産かもしれぬ。

 そのような中、沖縄でLRT(ライト・レール・トランジット)という新型の路面電車導入の動きが出てきた。これは仕事をせずに自分の保身だけを考える公務員ではなく、一般市民の運動だ。等しく公共交通機関の利便に浴することのない戦後の沖縄で、これは交通権の主張である。先日も沖縄国際大学でこの学会の九州部会が開かれたが、聞いてみると戦前の「沖縄電気鉄道=沖縄電鉄」の特許は、未だ取り消されておらず、生きているという。

今こそ公共交通の代表ともいえる鉄軌道を復元すべきではないか。

それは日本政府の責任だと思う。勝手な侵略戦争で破壊された沖縄の鉄道である。日本政府は責任を十分に背負うべきではないか。LRTはモノレールよりも地下鉄よりも、さらに従来の鉄道よりも安いコストで建設できることを知らないとすれば、公務員の怠慢以外のなにものでもない。  
                       (10
月4記)

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2008年9月10日 (水曜日)

沖縄から 沖縄へ 第13回

1 『明治時代の沖縄差別』  
           
玉城 朋彦(沖縄:首里高OB)  

 
 明治36(1903)年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で「学術人類館」という展示館が設置された。現在の博覧会や展示イベントの原型ともいえるこの催しで、アイヌ、琉球、台湾、朝鮮、インド、ジャワの人間を連れてきて「実物展示」した事件である。各地の衣服を着て並んで座らされ、調教師の格好をした男が、これらの各人間に鞭を振るいながら、優越した日本民族に劣る各民族だとののしるように説明した。

 民族差別の象徴ともいえるこの事件を素材にして、私がかつて勤務した琉球放送の先輩(知念正真さん)が脚本化し演劇になった。この脚本は岸田戯曲賞を受賞しており有名なのでご存知の方も多いであろう。そして今回同じく琉球放送の先輩で東京(青年座所属)で活躍する俳優津嘉山正種さん(蜷川マクベスやテンペストで主演)が朗読劇として構成し沖縄現地と東京で公演された。劣等民族の琉球人は日本語を話すことも十分でなく、動作は緩慢で日本民族とは言いがたく・・・と、説明役の係員は鞭を振るいながら見下す。

 ドラマは博覧会での民族蔑視の風景かと思われるかもしれないが、この沖縄差別が江戸時代末期の廃藩置県の際、琉球王国を無理やり「琉球藩」として組み込み、数年後無理に「沖縄県」にしていくといういわゆる「琉球処分」から戦前におきた「方言札」。戦争中の「住民虐殺」と「集団自決」の命令。戦後の米軍による「人権無視」、現在にいたる「米軍基地に起因する事件事故」などの、沖縄住民差別が劇中に織り込まれている。私は代々木八幡の青年座アトリエでの公演を見たが、調教師の日本語、住民が一生懸命しゃべる日本語と沖縄語の中間の言葉、そして沖縄語(よく方言と呼ばれる)という三つの言語が混ざり合う朗読となっていた。しかし話者の熱演とあいまって、会場の日本人は言葉を次第に理解した様子で客席は静まり返るようになっていった。観客の90%以上が日本人で在京の沖縄県人はほとんどいなかった。その客席からすすり泣く声が聞こえてきたのは、朗読が第二次世界大戦で唯一地上戦が戦われた沖縄の様子になった時だ。日本兵が防空壕に隠れた住民を壕から追い出したり、残った住民に手榴弾を配って自決を命じるくだり。子が泣くと米兵に泣き声が聞こえ発見されるから斧かカミソリでわが子を殺すようにと命令される。座席数五百足らずの席は満席で、かぶりつきの補助椅子での観劇となったのだが肩が触れた隣席の欧米人が涙を流して肩が揺れるのが伝わってきた。言葉の違いを超えて内容が伝わっていく感動的な瞬間であった。通訳の人も頬を濡らしている。

 朝鮮や中国、琉球やアジア諸国を見下した傲慢な日本人の歴史を描く朗読だった。読む津嘉山さんも途中から眼鏡を外しての熱演である。津嘉山さんは琉球放送を退社後上京し俳優座の若手らが結成した青年座に入り、標準語の発音、イントネーションを必死に体得したという。今回の朗読劇は、シェークスピアの舞台やテレビなどで活躍する津嘉山さんの存在証明あるいは原点の確認だった気がする。
                  
(2008年9月7日記)

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2008年8月13日 (水曜日)

沖縄から 沖縄へ 第12回

Yaeyamaaoki 人気の沖縄の食文化(その3)

 
藁をも掴む思いの人たちの支持 ―『ノニ(八重山アオキ)』」
 

                     
                玉城 朋彦(沖縄:首里高OB)

 人の出会いは偶然だ。その人に出会ったのは沖縄県商工会連合会の異業種交流会で経済情勢の講演をした後だった。「ちょっと玉城さん、お話が・・・」と呼び止められたのだ。彼は沖縄を代表する薬草メーカーのオーナー経営者であったが、第二次世界大戦中に父親が中国大陸に出征したまま帰って来ず、厚生省から戦死公報が来ただけだという。結局、琉球放送を退職後に私は大使館を訪ね、一緒にモンゴルに行き、草原の墓標を探して線香を捧げたのだった。

 その後、彼とは親しくなり農林省の南太平洋農業交流事業に関った折りに、沖縄の第一次産業の経営者の一人としてその視察に誘った。彼は沖縄の島々を歩いて薬草を採集し「薬草の研究」に日夜打ち込んでいたから、新しい展開があるはずだと考えて誘ったのだ。そしてサモアやフィジーなどの島嶼国の農業の見聞の中から、彼が見出したのが「ノニ」という植物であった。彼の記憶は、その植物が琉球古来の薬草である「八重山アオキ」と同一のものだと直感して、帰国後分析をした。琉球の薬草についての史料はこの八重山アオキについて万病に効くと記している。江戸時代まで「琉球藩」でも「沖縄藩」でもなかった沖縄は、「琉球王国」として日本と中国の双方の中間に位置し、明や清国と冊封関係があった。400年前の「薩摩藩の琉球侵略」後も日中両属の関係は続いた。江戸幕府の鎖国政策で窮屈な思いをしていた薩摩藩は、琉球王国という「ダミー」を通しての南蛮貿易を期待し、琉球が従来どおり中国との交易を展開することに目をつぶって、その成果を期待したのである。交易は物産から書籍に及んだ。したがって明や清の薬草研究の書籍も渡来したが、書物の中には琉球列島の薬草についての言及も当然あり、その情報は今に至っている。

 彼はそれらの史料をも確認、さらに八重山諸島の西表島に行き、現地踏査によって現物を採集。「ノニ」が「八重山アオキ」というように、特定していった。この八重山アオキは、匂いがきついとされ、史料が示すように薬効が期待されてきたものの、住民生活からは忘れ去られていた。彼は、その薬効を見直して商品化を考えたのであった。問題は八重山現地にも自生のものが少ないため、薬草商品としての量産が難しいことだった。ポリフェノール含有量が高く、ビタミン・ミネラルも多く含まれている薬草を見捨ててはいけないと、彼はフィリピンに飛んでこの「ノニ」の農場を契約する。フィリピンにも自生していることを確認できていたのだ。

「藁をも掴む思い」で闘病生活をしている人たちを助けようという彼の気持ちは、「沖縄産ノニ」の商品化に成功する。いま、このノニは沖縄から国内各地に販売されている。私自身も数年前に飲んだが、指摘されるほど匂いに抵抗はなかった。むしろ、病に冒されている立場から飲み始めるケースが多いという。この成果は、競合他社も製品化して広がっているが、彼は文句を言うことも無く、薬草の採集と効能の研究に余念が無い。彼はその後、沖縄県健康食品協議会の会長に推挙された。「ノニ」はウコンやクミスクチンなどの薬草とともに沖縄から「ゆうパック」で全国に配送され、リピーターのネットワークは年々広がっているという。
                       (2008・
記)
※画像/参照HP。
http://yaeyamaocean.com/katteni/newpage%20syokubutu.htm

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2008年7月 9日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第11回 

Pic66_2 Pic64_2 人気の沖縄の食文化(その2)

               

       玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 Izaihoo05 沖縄の食の魅力の2回目。沖縄の聖地といわれる「久高島」は沖縄本島の南東に浮かぶ小さな島だ。琉球王国時代の歴代国王が神の地として崇め、神女とされた王妃は参詣を欠かさなかった。その久高島には現在でも女性だけの「イザイホー」という祭祀が伝わり、12年に一回のわりで男子禁制で行われた。といっても、ここ数年この行事は若い女性の島での不在から継続されず継承が困難になっているが…。白装束を身にまとった女性たちが「七つ橋」を超えて神あしゃぎとよばれる小屋に入る姿は、緊張感に溢れ神々しい。

 Recipe12 その島の女性たちが行う漁が「海蛇採り」である。海蛇を沖縄の方言で「いらぶー」というが、このいらぶーの北限が沖縄だという。男性は舟を漕いで南洋に向かい、女性は島の近海で海に潜っていらぶーを採った。そのいらぶーは「いらぶー料理」にして食すると効能があるという。私もテレビ番組の取材で食べたことがある。うなぎの長いものと想像されたらいいだろう。テレビキャスターの端くれとして、その捌く様子を実況した。大きなまな板に載せたいらぶーを手で押さえ、一瞬にして首にくぎのようなものを刺して、一方を固定し片手でからだの動きを押さえながら包丁でたてに切っていく。そして皮をはぐ。蛇の皮を剥ぐと思っていただくと良いであろう。ここで、一方の方法は胴体を輪切りにする方法もある。皮を剥いだほうは味噌汁に入れて「いらぶー汁」となる。魚汁の魚が海蛇になった感じだ。さて、輪切りのほうは、味噌汁よりむしろ「いらぶーしんじ」とういう「吸い物椀」の出汁(だし)になっていく。吸い物椀に輪切りの蛇が入っていると想像されるといよい。

さて、近年、このいらぶー料理に全国的な注目が集まっている。高血圧症は成人病の代表であるが、脳梗塞など脳血管障害にこの海蛇が効くというのだ。東京からわざわざ「いらぶー吸い物」を食べに来る人も多い。食べながら異口同音に発する言葉は「血が走っている」。どうも血流促進機能があるらしい。この機能に着眼した企業はいらぶーの粉末状の機能性食品の製造に成功した。元西鉄の有名な稲尾投手も沖縄のゴルフコースで眩暈を覚えたが、このいらぶーで回復し市場で黒いいらぶーの姿を探し続けた。

 那覇にあったいらぶー料理の名店は経営者夫婦が高齢化したため、少し田舎で隠居を決め込んだが、他府県からの問い合わせが閉店後も続き、結局場所を変えて店を再開店したとうエピソードがある。飽食の時代といわれて久しいが、ストレスフルな都会人は脳梗塞で一度倒れてから、「藁をも掴む思いで」いらぶーを食べにくるのだろう。

沖縄は、そういった人たちを救う島かもしれない。しかし、血を走らせるいらぶーの漁獲量は減少し、現在は不足分をフィリピンから輸入して補っているという。島の女性の手仕事は、むかしも今も多くの男性を助けている。(7月6日記)
参照:久高島HP
http://www.kudakajima.jp/index.html

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2008年5月14日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第10回 

3 Photo 人気の沖縄の食文化(その1)
             
    
               玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)


沖縄を訪れる観光客は、相変わらず増え続けている。沖縄本島のホテルの稼働率は高く、まだ不足気味だという。あるいはゴルフコースもまだ需要があり、増えるようだ。ウエディングツアーも年々増加し、ホテルやリゾートには教会のチャペルも姿を覗かせている。

 高級レストランではなく、一般の食堂に至っては、地元の客に混ざって、観光客が沖縄の家庭料理に舌鼓をうっている風景も見受けられる。工事現場から来た作業服姿に混じって、ガイドブック片手にモノレールの駅から歩いて大衆食堂に昼食を食べに来るのだ。離島に目を転ずれば、離島苦など関係ないとばかりに若者が住みつき、海で泳ぎ、サーフィンをし、潜り、夜になると庭先の手作り野菜と魚で生活する様子も見て取れる。島の住民の数より、そんな気ままに生活し遊ぶ若者が多かったりする。ある島では「もう、この島は誰のものかわからない」といった声も聞こえてくる。

 一年を通して暖かい気温、台風シーズンを除けば、時間に追われることも無く、自然の風景と緩やかな時間だけが過ぎていく地域。ストレスフルな都市生活者にとっては、至上の楽園なのであろう。

 そのような沖縄の食べ物を紹介しよう。まず①「ふーちばー」、日本語で言う「よもぎ」である。紫外線の強い沖縄では、日本の川原に自生する「よもぎ」とは異質のもののようだ。葉の色はやや濃く、このふーちばーを搾った「ふーちばージュース」は、いま韓国市場で人気を集めている。ふーちばーには血圧降下作用があるといい、肉食の韓国では焼肉などの肉料理の食後に人気が高まっているというのだ。友人の医師は、眩暈など高血圧の症状が出た時に、ふーちばージュースを飲むと瞬く間に血圧が下がる、と自らの体験を話してくれた。

沖縄本島南部の珊瑚礁石灰岩の上にモンゴルから飛んできた砂が乗りできた地層は肥沃ではなく、土壌改良が必要とされるが、「ふーちばー」は、そのような地質でも十分に生育する。

沖縄の基幹作物はさとうきびとパイナップルだったが、農産物の輸入自由化の波は、国際競争に耐えうるだけの農作物を維持できず、いずれ両作物とも衰退するだろう。変わって登場するのは、「ふーちばー」に代表される沖縄の健康と長寿を支えてきた作物かもしれない。

「ごーやー」はいわゆる「苦瓜(にがうり)」だが、いまでは沖縄での呼び方である「ごーやー」という名称が市民権を得ている。ほんの10年間の間に、である。日本人の健康志向と、NHKドラマ『ちゅらさん』の影響による沖縄ブームは苦瓜をごーやーに変えたのだった。沖縄では「長命草」とよばれる「サクナ」も隠れた人気だ。チャーハンに細かく入れると苦味は薄れて薬草だという記憶を奪う。しかし考えて見れば、「いじゃなばー」「かんらばー」など薬草系の野菜が豊富な地域が沖縄である、とも言える。私の庭の隅に中国渡来の「雲南百薬」があるが、これなどは琉球と中国との長い交流史を証明するような外来種なのかもしれない。これらの植物は珊瑚礁石灰岩というカルシウム基盤の土壌に強い太陽光線があたり、生育を促進することからできた沖縄ならではの自然の恵みかもしれない。

 中国の影響で沖縄は肉文化の土地である。四海を海に囲まれていても魚料理は発達していない。一方、豚肉を琉球王朝の料理に位置づけて、その中和剤として北海道産の昆布が日本から樽廻船に乗って琉球にやってきた。肉と昆布の組み合わせは今もつづく。その文化にインベードしてきたのは米軍がもたらしたステーキ料理だ。
                    (2008
年5月11日)

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2008年4月 9日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第9回

Photo_3 『建築基準法改正で悲鳴 沖縄の建設業界』

           玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 甲子園の春の選抜高校野球で沖縄尚学高校が9対0で優勝した。沖縄から甲子園に初めて出場したのはもう50年前の1958年の夏だ。私の母校「首里高校」が第40回記念大会に特別招待高校として参加して半世紀が過ぎたことになる。出ても勝てず、初勝利は5年後1963年の夏で日大山形に4対3で勝った。球児は甲子園の土を両手いっぱいに拾い、袋に入れて沖縄に持ち帰ろうとするが、「異国」であったため検疫法に違反するとして、船から海に捨てられたという悲しい事実があった。以来半世紀が過ぎて、今回は高校生記録初のランニングホームランを含めて9対0である。沖縄県民は歓喜の声に泣いた。

ところで、いま沖縄で問題になっているのは、先月記した米兵の少女暴行事件―これは横須賀でのタクシー運転手殺害事件もそうだが―、その背後にある「日米地位協定」という不合理な国際協定の改定問題だけではない。もう一つ、3年前に発生した「姉歯設計士の耐震偽装事件」を背景にして日本政府が打ち出した「建築基準法改正」で、沖縄の建設業界が悲鳴を上げている。

 この連載の第2回(昨年9月)を参照されたいが、沖縄の建築は台風などの襲来に備えて、ほぼ95%が鉄筋コンクリート建築である。姉歯事件ではマンションなどの構造設計で偽装して鉄筋の本数を減らした事実が詳らかになった。そこで、基準法改正では業者から出される建築確認申請を厳しく審査した上で建築確認を承認する、というふうになったのである。申請書類審査が厳しくなって鉄筋の間引きができなくなったのは、それはそれで良いのだが、同時に、確認申請を出してから承認が出るまでの時間がかかり過ぎるようになったのだ。姉歯の偽装を見抜けなかった審査システムを立て直すのは良いが、この改正の結果、国内の建設着工戸数が平均して約5%減少したと報道されている。

では、マンションや公共建築(公営住宅等)以外の民家も『RC構造』と呼ばれる鉄筋コンクリートである沖縄の場合はどうか。他府県では民家は木造建築が、沖縄では上述のように台風対策もあって100%鉄筋コンクリート建築である。したがって、法改正のために建築確認申請に基づく承認手続きは大幅に遅れている。その影響で着工戸数の減少は50%、他府県の10倍にあたる激減なのである。沖縄の産業構造は、観光産業、基地関係、公共工事の3業種が大きなウエイトを占めている。昨今の財政の悪化は公共工事の減少を全国的にもたらしているが、建設業者はこれを民間住宅工事でカバーしようとしている。しかし、確認作業の遅れで民間住宅着工戸数も減り、企業経営そのものが厳しくなっているのが現実だ。先月末沖縄県武道館を埋めた総決起大会は、『沖縄戦の集団自決を教科書から削除』したことへの抗議や『米兵による女子中学生暴行事件』への抗議でなく、改正された建築基準法の沖縄への適用の再考を求めるものであった。一人の「型枠大工」の『あしたから仕事は無い』というつぶやきを聞いた人たちが実行委員会をつくり2万人の署名を集めての大会であった。作業服やニッカポッカを着た3500人が抗議の悲鳴を上げていた。国会議員も公務員もスーツを着て綺麗な服装で机に向かい、この沖縄の「現場の悲鳴」に向き合っていない。いわば、行政の確認申請の民営化が一般建設業の現場を圧迫し、建設業のみならず、設計事務所や下請けの型枠大工、とび職人、建設資材業、不動産業などに波及し、施主である一般市民にも影響してきているのだ。                (2008年4月6日記)画像:「琉球新報」より

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2008年3月12日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第8回

Photo_2 沖縄の声は“たな晒し”か

             玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

沖縄からの原稿が嫌なニュースばかりと思われるかも知れないが、例の今年2月に発生した在沖米軍による事件のこと。沖縄市内に住む女子中学生を38歳の米海兵隊員が「家まで送ってあげる」と誘ってバイクに乗せ、基地外の自らの住宅に連れて行き、さらにそこで乗り換えた車で北谷町まで行って、車内で暴行したという事件である。今度の事件は民間地域での発生で県警が素早く捜査体制をとったこともあり、比較的早く被疑者の身柄を確保できた。通例では、犯行を犯した米兵は、その足で基地内に逃げ込む場合が殆んどで、その場合は身柄の確保が難しく、民間の地元警察は身柄の引き渡しを求めて苦労する。
 
今回の事件の発生で、いくつかの問題点が指摘された。まず、米兵の住居が基地の中だけでなく基地外にもかなりあるということだ。今回の米兵も民間地域の住宅を借りて住んでいた。問題は基地の外に一体何人の米兵が居住しているのかだが、外務省はそれさえ掌握できていないことも明確になった。一方、基地の中にある米軍兵士向けの住宅は日本政府の「思いやり予算」で建設されているが、その20%は空き家だという現実もわかってきた。思いやり予算は米軍兵士用住宅の新築と改築に使われ、その広い面積は、日本の家屋に比べて見ればうらやましいほどのゆとりある設計になっている。しかし、この住宅の稼働率は8割ということだ。
 
もう一つの問題は、週刊誌等のしつこい取材だ。被害者の女子中学生は雑誌の取材に「セカンドレイプ」された形になり、「そっとしてほしい」と告訴を取り消した。そのため被疑者の米兵は釈放された。新聞や放送は被害者が少女でもあることから、プライヴァシーには特に気をつけているが、95年の事件の時も同様に週刊誌とテレビのワイドショーの取材が問題になったことは記憶に新しい。しつこく被害者居住地の周辺を歩き、インタビューする。これでは、被害者がだれなのかを近隣の一般住民に告知しているようなものである。
 
そして、最大の問題は日米地位協定の改定の問題だろう。外務省は協定の運用改善で対処すると国会の外務大臣答弁で繰り返してきた。その結果が今回の事件だ。運用の改善で済まないことはより明確になってきたにも関わらず、改定を視野に入れていない日本政府の腰の抜けた姿勢に、沖縄県民は「怒り心頭」である。
 
革新県政だった大田知事時代、保守の稲嶺知事時代、と日米地位協定の改定案作成は継続され、日本政府に対して「保革を超えた沖縄の声」として、改定の要請が続けられて来た。しかし、日本政府は、この要請に応えることなく県民の総意(要請)を“たな晒し”にしたままである。外交交渉など面倒だ、といわんばかりだ。この事件以外にも今年に入り下記のような事件が続発した。

(1)民家不法侵入事件:沖縄市で酒に酔った米海兵隊員が夜間に民家に侵入し、応接間のソファーに寝ていた事件。
(2)フィリピン人女性暴行事件:カデナ基地の米陸軍パトリオット・ミサイル(PAC3)要員で伍長の階級の米軍人がフィリピン人女性に暴行を働いた事件。
(3)偽ドル札偽造事件:キャンプキンザー所属の米兵がドルをコピー機で偽造、使用した事件。
(4)タクシー当て逃げ事件:沖縄本島北中城村で20代の米軍軍属男性がタクシーに追突し、53歳の運転手は頚椎捻挫のけが。米軍捜査機関の調べでは容疑者の特定に至らず、泣き寝入り状態。むち打ちの症状で肩や首が動かせず休職を余儀なくされている。仕事ができず無収入、治療費はかさむが補償はない。
(5)タクシー強盗致傷事件:1月に沖縄市内で米海兵隊員二人がタクシー料金を踏み倒そうとして運転手を酒瓶で殴るなど暴行を加えた。通行人に見つかった。

このように、米軍基地に起因する事件、事故はまさに日常茶飯事であり、沖縄県民の怒りは高まりを見せている。昨年の歴史教科書からの「軍命による集団自決」部分の記載削除問題に続いて、県民は怒っている。
外務省は「日米地協定の運用の改善」で身柄拘束や捜査等の対応は改善されたとしたが、基地あるが故の事件・事故は減る気配を見せない。また米軍人の民間地域居住の実態を外務省は把握しておらず、基地外への外出禁止措置の効果など疑わしい。実際に米兵による事件が発生し続けている。
報道人の仕事の枠を超えて、敢えて日米地位協定の改定に向けた作業に意図的に、あるいは積極的に関わろうと、私自身が「ある作業」に関わり始めている。

                      (2008..8記)
画像は第三海兵遠征軍(記事中の海兵隊員所属部隊)の紋章

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2008年2月13日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第7回

2_4やはり、取材が楽しい
          
            
玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 年末に東京の三鷹市に住む沖縄出身の男性を訪ね、合計8時間のロングインタビューをした。キャスターとしてのインタビュー経験で最も長時間である。彼は83年前に沖縄本島の北端の集落に生まれた。元々琉球王府のあった首里の士族だが、明治維新で琉球王国が琉球藩として強制的に日本に併合された時、彼の曽祖父は抵抗した。進駐した熊本鎮台軍に対峙して北端の村に逃避したのだった。彼が尋常小学校を終えて13歳の時に、両親は彼をブラジルに移民させて子に新世界を経験させようとする。しかし、15歳以下の移民は不許可になる。沖縄からも多くの家族が南米に移住して苦労したが、貧困からの脱出をすべく沖縄からも多くの人が渡航した。彼の叔父家族も第1回笠戸丸移民でブラジルにいた。
 
次の選択肢は満州。満蒙開拓青少年義勇軍なら16歳から応募できた。零下40度の地に亜熱帯の沖縄から少年は渡る。文武に優れた彼は、休みの日に馬を駆って満州人の集落に行き、抗日戦線の若者に出会う。沖縄=
琉球出身と告げると若者は「琉球、朝鮮は兄弟だ」といって抱きついてきた。日本の帝国主義はアジアの民族から収奪の構造を造りだしている。「八紘一宇」の精神は、互いの国と民族を滅ぼそうとするものだと言われる。優等生だった彼は、それ以後、皇軍と日本に懐疑的になり、他の学生らと勉強をし始める。1940年、「皇紀2600年」の頃である。
 
満州の関東軍が1941年に見せかけの関東軍特種演習(関特演)でソ連を威嚇した後、太平洋戦争で日本は南進。徴兵された彼の所属部隊は南西諸島の宮古島に移駐する。既に台湾の補給線は絶たれており、彼は海軍輸送船を英軍のグラマンの掃射から守った。気がついてみると数機を撃墜したあと自分も撃たれて南の海に投げ出されていたのだった。海軍は功績を讃えて金鵄勲章の授与を決める。だが、それも満州時代の反軍的行為(勉強会等)があったとして取消し。逆に死刑宣告を受けてしまう。ここで彼を助けたのは部隊の仲間と地元住民だった。彼は匿われて終戦を迎えた。

 終戦後の彼は、出身地に帰り、集落復興にむけ青年団を再組織化、虚脱状態にあった廃墟の沖縄の立直しに尽力する。米軍の統治に抵抗して沖縄初の政党「沖縄民主同盟」を20代前半の仲間3人で結成。『自由沖縄』というタブロイドの新聞を発刊する。集会の自由・結社の自由・言論の自由を主張した。しかし米軍圧政の批判は米軍高等軍事裁判に彼を引きずり出す。異民族への隷属を批判する論調が、沖縄統治を民主主義のショーウインドーと見せかける米軍司令部の逆鱗に触れたのである。裁判で親友二人の釈放を勝ち取ったが、彼にはそれ以降米軍CIC(防諜部隊)の監視がつくようになる。被選挙権が無いままに議員にも推挙されたが、監視がしつこい。彼は、この沖縄の実情を日本に訴えるべく密航。大阪で共産党に入り、オルグを始める。さらに沖縄の米軍の実態は世界に訴えるべきだと決意して欧州への密航を企てる。沖縄から戦果のスクラップ満載の船に忍んで台湾へそして香港へ。香港で水上生活者と仲良くなり、フランス行きの船に隠れたものの、シンガポールで発見されてしまう。再び香港に戻った彼を助けたのは香港の新聞『大公報』の記者たちだった。造船所で建造中の中国船の船底に隠れ、広州で引き渡された後に木造の床を破って上に出た。人民解放軍に見つかったが、満州時代に習得した中国語で密航の目的を訴えると兵隊たちは共感し、逆に応援してくれた。それから彼は北京に送られて学び、某研究所でその後、研究員として働いた。何を研究していたのかについては、口を閉ざしている。

 そのころ、米軍統治が進む沖縄はベトナム戦争の前線基地になっていた。中国や朝鮮、あるいはソ連の電波はもちろん傍受されていて、その施設は“象の檻”とよばれた。アンテナがサークル状に並んでいて象を飼う檻に似ているからだが、ケネディ大統領暗殺後に就任したジョンソン大統領の頃、この施設に働く沖縄人が北京のラジオで下手な中国語を使う講師の声を聞いた。声の質に聞き覚えがあった。むかし関東軍で同じ釜の飯を食った同じ沖縄出身のあの男ではないか。戦後まもなく彼は中国に密航したらしいが、その後音沙汰はなかった。紅衛兵を相手に講演している本人の名前は「シャン」。そうシャンは「上」。中国では苗字は一字だ。「上原」は「上」となる。この声は消えた男、あの「上原信夫」に違いない。

 キッシンジャーの北京工作が功を奏しニクソン大統領と周恩来首相が握手をした米中国交回復は1972年、同じ年に沖縄は米軍統治時代を終え、日本に復帰した。「シャン」こと「上原」の生存確認と帰国は、その後しばらくしてからのことだ。このような数奇な人生の記録に、この正月休みをついやした。
                    (2008年.2.9記)

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2008年1月16日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第6回

Photo_2 新聞・本から遠く離れた島

           

           玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 昨年最後に、読んだ本は、ゾルゲ事件のノンフィクション『赤い諜報員』という一冊。米国インディアン出身(アメリカ先住民族)の女性記者アグネス・スメドレー、台湾育ちの朝日新聞記者尾崎秀実、ユダヤ系ソ連スパイのゾルゲも記者を装った。沖縄出身の米国移民画家宮城与徳は米国共産党員。4人はいずれもマイノリティや植民地から出てきた人生を上海で交錯させ、一人ずつ死んでいった。朝日新聞の広告を見て読みたくなったものの、沖縄県内の書店には無かった。師走に浜松町の書店に飛び込んで買ったのだった。約500ページは、一日で読み終えた。

先月のこのコーナーでも沖縄と日本の「距離」をテーマにしたが、書籍の流通を見たとき週刊誌は1週間遅れ、単行本も入荷量が少ない。新聞を見ると、例えば『赤い諜報員』を、私が知った朝日新聞の東京版の購読者数は、極めて少数だ。地元紙沖縄タイムスと琉球新報が県民を二分しているのだ。戦後27年間の米軍施政権下で、戦後の復興、日本への復帰運動、基地問題等に精力的に取り組んだ両紙は多くの県民の信頼を得ている。1972年に日本に復帰してから朝日、毎日等の全国紙が流通を始めたが沖縄県民には読まれていない。地元紙で十分だという県民意識がある。そして、根強いのは沖縄対本土(日本)という対立構図の中で本土紙を読む必要があるのかという疑問、さらに、他府県から遠く離れていて一体感は薄く、事件事故など関係ないということかもしれない。

そして東京版にしろ、福岡発行の西部版にしろ、空輸による費用が購読料にオンされているために、購読料が高いということもある。地元紙が3150円、朝日の東京版が5158円、私の場合月額8千円あまりが新聞にかかる。しかも、朝刊と前日の夕刊が午後3時過ぎに一緒に配達されてくるのだ。このような要因から沖縄では全国紙の購読契約者数は少ない。むしろ日本経済新聞の購読契約数が多いと聞いた。これは那覇市にある本土企業の支店や営業所での契約だから、一般従業員はなおさら読まない。一職員が日経を読む風景など他府県でも稀であろう。沖縄では日経が朝日をぬいて購読契約数トップという珍現象が現れている。これに加えて、沖縄には鉄道が数年前に開通した那覇モノレールしかなく、駅売店kioskが存在しない。したがって駅で新聞や週刊誌を購入する習慣は皆無だ。もちろん夕刊フジも日刊ゲンダイも存在しないし内外タイムスも東京スポーツも無い。
 
このような状況では、『赤い諜報員』というおもしろい本が出ても、県民は知らないままだ。これより先に『米国公文書・ゾルゲ事件資料集』530ページ余が出て、知人が関っていた関係で購入したが、これは朝日の書評欄でも紹介された。県人の宮城についての部分もあるものの、地元では知られず、流通も無い。年末年始には、東京のホテルで買い込んだ『宇治拾遺物語』や『十訓抄』など口語訳の文学書に浸ったが、これらも那覇には見当たらない。いまは、退任したFRB(米連邦準備制度理事会・前議長)Alan Greenspanの『変動の時代』の上巻がおもしろく毎夜読んでいるが、下巻は県内の書店に入荷もしていない。『ゾルゲ』も『宇治拾遺』も『グリーンスパン回顧録』も結局、沖縄の人間に読まれることが無いとしたら、これ以上の不幸は無いと思う。

 新聞、週刊誌の流通、書籍の流通は、最近BOOKBOX程度に限られてきている。その店内には多くの高校生や若者や主婦や会社員が本を立ち読みする風景が見られる。しかし、本当の本らしい本には巡り合えないまま人生を送る人が大多数かもしれない、と思ってしまう。全国学力テスト最下位の沖縄県。このような活字接触率の弱さも背景にあると思える。本を読まないから、字を書くのも苦手と見えて年賀状の差出枚数も最下位だ。
(08
-01-10記)

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2007年12月12日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第5回

F 沖縄と本土との距離

               玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 東京と沖縄を結ぶ航空便は一日に約25便ある。日本航空、全日空に加えて、沖縄県が50%の株を持つ日本トランスオーシャン航空、それに新興のエアーニッポンやスカイマークである。他府県のように鉄道という大量交通手段が無い沖縄では、戦前はもちろん、戦後も昭和47年の日本復帰までは、船舶による移動が大方を占めていた。しかし2日がかりの東京、一晩の鹿児島や神戸などの船便は衰退し、現在では入域客の95%は航空機による移動だ。東京行きは2時間。帰りの便は2時間30分。2日がかりの船旅は2時間などと夢のようだと人は言う。
 
その「時間的距離」の短縮は、沖縄県民と他府県民との距離を短縮できただろうか。タイムディスタンスの短縮は、しかし県民の精神的距離をも縮めたとは決していえない。例えば、平和意識。第2次世界大戦で国内唯一戦場と化した沖縄では、その戦場体験が風化することはない。その背景には、終戦直後に始まった米軍基地建設と駐留、そしてそこから発生する事件・事故に沖縄県民が苦悩し続けていることがある。前にも記したが、東京大空襲や広島・長崎の原爆被害も沖縄と同じく住民を恐怖に落としたが、沖縄の恐怖は、戦後も朝鮮戦争―ベトナム戦争―カンボジア―中東という具合に、米国の戦線の継続とともに続いているからだ。
 
日米安保の「極東条項」の拡大解釈は、膨張し続けて県民に安息の日々をもたらすことはない。今も米空軍カデナ基地には米空軍F15ファントムが駐機している。飛行停止処置後に機体に亀裂が発見され空軍全体の4機の同型機に亀裂が見つかった、その中の2機は嘉手納基地所属なのである。先月、米国ミズ―リ州でF15が墜落、飛行停止処置が出されたが、「安全」とされて解除。そして2週間後の亀裂発見により飛行再停止だ。
 
嘉手納の住民は、このところ未明3時に、基地のF15搭載のエンジン調整爆音で目が覚める。騒音防止協定違反の未明の調整爆音の原因は、米国本土の基地への到着時間を日中に設定したいため、嘉手納からの離陸を午前3時台に設定したという。現地住民をバカにしたような釈明である。この現実に日本政府は何も答えない。外務省のエリート官僚たちは、住民から「どこの国の外務省職員ですか」と、皮肉たっぷりの目で蔑視されている。エリート官僚の眼中にあるのはワシントン政府であって、基地の地元の町ではないのだろう。 
 「日本」に復帰して、時間的距離は短縮されたが、沖縄現地の情報は日本政府に伝わらず、住民の心も理解できていないとすれば、「本土」と沖縄の精神的距離は昔も今も変わっていない といえる。
                   2007年12月8日記) 

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2007年11月14日 (水曜日)

沖縄から―沖縄へ 第4回

Photo

米軍基地の建設で、地元企業は潤わない沖縄の現実

辺野古に基地を作っても利益は本土大手建設業にさらわれていく悲劇

               玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 米軍基地の再編が全国的に進められているが、日本国内の米軍基地の75%が集中する沖縄では、最も大きな利益が期待されていた。それは沖縄本島の平坦で肥沃な土地が地元に返還され、新たな地域発展の核になり得るという期待がひとつ。もう一点は、海兵隊普天間基地の移設に伴う建設業者の利益源の誕生というものだ。普天間が移転するのは沖縄本島北部東海岸の辺野古という海岸である。1995年に起きた米兵による少女暴行事件の後、当時の橋本総理とクリントン大統領は普天間基地の返還に合意した。国外へ移転すると日本政府の思いやり予算が享受できなくなる米国は、日本国内の移転を主張、しかし、暴行事件の現実を知る他府県が普天間を受け入れることはなかった。結局、県内移設となったのだ。当初、海上での浮遊式フロート空港が提案されたが、この技術は本土大手の造船業者が持っており、地元には経済効果がないとして猛反対を受けた。そして埋め立てによる建設を確認。
 
現在は沖縄県が環境影響評価について、沖合への215メートル移動を主張している。この主張の背景に、絶滅危惧種ジュゴンの藻場があること、地上部分に埋蔵文化財があること、世界希少種の貝の生息地であることなど、主に文化的、自然保護的視座からの問題提起があることはよく知られているが、他方に、その本音は地元建設業者の工事面積の拡大策にほかならないという、うがった見方があるのも事実だ。だが、実は、地元の建設業者はこの大型公共工事には入札参加ができない。企業規模が「特A」とされるクラスに達していないのが大多数だからである。沖合に215メートル出しても、受注するのは本土大手建設業者で、地元の業者は下請けか、孫請けである。現地住民の猛烈な反対運動をよそに、防衛省の守屋前事務次官が、現地の有力者に航空券を渡して上京を促し建設への承諾印を求めるという強行策があったと、いう情報も出た。集落の心は分断されて、利益は本土へ。
 
「嫌われ者である米軍基地の75%は、沖縄に押し付け、利益は本土大手企業が持って行く」という図式は明快だ。3年前、公正取引委員会は、沖縄地元の建設業者の「談合」をかなり厳しく摘発した。罰金を払わされた建設業者は体力を失い、結果として選挙協力や積極的選挙応援もできなくなった。今夏の参議院選挙では革新系の候補が13万票の大差で勝利。次期総選挙では県内4つの地方区から自民党候補が全滅するという悲観的な見方が多くなっている。建設業界は従来支持してきた国会議員を失い、その結果、地元の声が届くことなく本土企業に好き勝手に地域を荒らされる懸念が、出てきているのだ。
 
基地を押し付けられ、保守の票田の建設業も骨抜きにされて、公共投資のカネは本土に還流していくという“ざる経済”が続いている沖縄の、これが現実だ。公取に談合を密告したのが本土の建設企業だとすると、沖縄の地元企業潰しを目論む本土企業と政府の癒着が見えてくるようだ。結局、沖縄の振興開発を目指すはずの国家予算は、沖縄には落ちない。
(2007.11.9 記)

図表:「米軍公文書より」

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2007年10月10日 (水曜日)

沖縄からー沖縄へ・第3回 

Jiketu_2  Bunnpu_2 日本軍による集団自決への軍命

    ―高校日本史教科書検定での修正へ抗議

               
       玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)

 太平洋戦争末期の昭和20年3月26日。米軍は沖縄本島西部に浮かぶ慶良間諸島に上陸した。

島には日本軍の守備隊が駐留し米軍が来たときは木製の特攻艇で米艦船に特攻する計画であったという。日本国内で唯一米軍が上陸し地上戦が戦われるのは、このあと4月の沖縄本島への上陸からの約84日間である。米国防省資料によれば、太平洋側に向けて陣地構築をしていた日本軍の裏をかいて、東シナ海に回りこんでの上陸作戦であった。慶良間諸島の日本軍も目前の大艦隊に圧倒された。島の住民は日本軍から各自に手榴弾を二個ずつ手渡され、「一個は米軍に向かって投げること、もう一個は捕虜になる前に自らで爆発させ自決しろ」と命じられた。

 以来62年の歳月が流れた。文部科学省は教科書検定審議会に対し日本軍が自決を強いたと読める表現を修正するよう求める修正意見をつけた。この事実を捻じ曲げる日本政府の方針に沖縄県民は怒り、9月29日午後3時からの県民決起大会には11万6千人が参加し、修正の撤回を要求する決議をした。

 1995年に米軍兵士3人が女子小学生をレイプした事件での抗議集会は5万人。米軍普天間基地の辺野古移転抗議集会に2万5千人、沖縄国際大学構内へ米軍ヘリ墜落爆発事件には・・・・

と、基地問題や平和に関しての沖縄県民の抗議の意思は強固であった。しかし、今回は自民党から共産党までの全政党、婦人連合会、PTA連合会、老人クラブ連合会から、連合や宗教団体、独立運動団体までが結集しての大会になった。リーダーは自らも少年として沖縄戦の現場にいて集団自決の地獄図を目の当たりにした自民党所属の県議会議長である。

 沖縄各地では、集団自決の証言に口を閉ざしていた人たちが、今、証言を始めている。渡海文部科学大臣は、証言を踏まえ「判断は、もう一度検定審議会にお任せすることになると思う」と今月5日に述べた。審議会では異なる結論が出るであろうか。

 現在までにわかっている集団自決による死亡者は約600人。証言者は手榴弾で死ねず、棒やカマで家族を殺しあった62年前の現場の生き残りである。取材したある女性は、防空壕の中で気がつくと、まわりは家族や近所の人たちがみんな死んでいたという。「耳に聞こえてきた鼓動は、枕になった死体の心臓から血液が流れ出る音だった」と証言した。
 
衆参のねじれ現象のなかで日本国の総理大臣が右からやや穏健派に変わった微妙な時期になって、沖縄の県民の怒りのこぶしが、やっと東京からも見えるようになったのか。                                    
写真出典: 
(1)『米軍撮影(米国立公文書館蔵)「沖縄本島南部」』
(2)『平和への証言』沖縄県立平和祈念資料館.1983.』より」

                                                       

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2007年9月12日 (水曜日)

沖縄から・沖縄へ 第2回

Photo遅い台風情報と災害予防

            玉城 朋彦(沖縄:首里高新聞部OB)               

 

原稿を書いている今、テレビ各局は台風の関東直撃を予想して十分な台風対策を呼びかけている。私の住む沖縄は台風常襲地帯ではある。しかし、戦後の米軍統治下の28
年と日本復帰後の35年で、沖縄の住宅は変貌した。琉球独特の赤瓦の家屋は消えて行き、代わりに登場したのは鉄筋コンクリートの住居である。原因のひとつはアメリカナイズされた住まいへの感覚の変化だ。畳の和室からタイル張りの洋室へ住まいも変わったのだ。しかし、それ以上に大きな要因は、台風対策である。より強固な建造物への指向はアメリカの住宅(多くは基地内の軍人・軍属の家族ハウジングだが)を参考にしながら家族を守る鉄筋コンクリート住宅を増やした。

 従って、最近では台風が来ても、家屋の倒壊や半壊などはほとんど無い。それに比べ他府県へ台風が接近・上陸した時の家屋への被害の多さは他人事にも見えてくる。なぜ、日本本土は台風被害が多いのか。コンクリートで固められた都市構造への批判があるが、それ以上に、台風情報の発表・伝達が遅い気がする。

 気象庁という日本の官僚機構のひとつと米国海軍は、共同で衛星とコンピューターを連動させた「台風情報システム」を既に構築し運用しているのだが、予測された情報は同じな筈なのに日本の気象庁の発表が遅いのだ。特に台風の予想進路は、台風の進路方向にある地域では、情報をすばやく知り、対策を立てることが肝要である。つまり、土砂崩れ、洪水、河川氾濫等の対策が早めに取られ、人身への被害を最小限に食い止めることに繋がっていく。私の体験では、台風情報は米軍発表のものが早く、日本復帰前も、私の両親は米軍の英語放送に耳を傾けて情報をキャッチし、戸締りなど対策をしていた。

 インターネット時代になり、日米の合同台風プロジェクトは閲覧可能だ。数年前の北陸地方を直撃した台風の進路予想は米軍からいち早く発表されていた。もし同時に気象庁も同じ内容を同時に発表していれば、あれほどの被害は無かったと思えて残念だ。私はあの年の台風上陸の頃出張を予定しており、ことさら日米の台風情報を見比べながら出張日程と航空券の予約をしていたため、記憶に残っているのだ。東京での会議の合間に北陸地方での被害の状況を知らせるニュース速報を見て、そのように思えてならなかった。

 日米は共同で衛星を使いコンピューターで進路予想を弾いている。だとすれば、日本側の発表だけが遅いのは何故か。日本の官僚機構の稟議制度に象徴される組織を「書類が回っている」間に、台風は上陸し、被害を増大させてはいないか。

                        2007.9.6執筆)

写真:「『Joint Typhoon Warning Center Product』より」

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2007年8月 8日 (水曜日)

エッセー「沖縄から・沖縄へ」

Photo 参議院選と米軍基地、そしてメディア
          玉城 朋彦(沖縄:首里高校新聞部OB)

 米軍は空軍、海軍、陸軍、海兵隊の4軍で構成されている。そのうち最も野蛮で若い兵士の集合体が沖縄海兵隊だ。04年に沖縄国際大学に墜落炎上したヘリは海兵隊の大型ヘリであり、95年に沖縄本島北部の女子小学生を誘拐レイプしたのも海兵隊員2人と海軍兵だった。問題は彼らが起す事件・事故の捜査権が日本側に無く、米軍捜査当局の取調べの後、犯人の兵士は本国送還で済んでしまうことである。日米地位協定が彼らの地位を保全しているのだ。安倍内閣への不信任ともいえる参議院選挙の結果を見るとき、民主党ほかの野党勢力にアンバランスな日米関係の見直しを望みたい。
□私が勤務していた琉球放送のラジオカーは、米軍車両に中学生が轢き殺された現場から遺体の収容までに至る実況中継をした。1963年の事である。当時も、運転していた米兵は基地に連れられ軍事裁判を受けたものの無罪で本国送還。死亡した中学生には一切の補償も無かった。沖縄が日本の一県に復帰してから35年の歳月が経過した。しかし、日米関係の現場の状況は変わっていない。米国に追随する小泉―安部政権は国内辺境の現実より、遠いワシントンにばかり気をつかっているように思えてならない。
□与野党拮抗で、メディアの真価がこれから問われる気がする。

 
:写真説明:
沖縄本島で1965
年、演習中の米軍ヘリからトレーラーが落下し道を歩いていた小学校5年生の少女が圧死させられた。
(沖縄タイムス『写真に見る沖縄戦後史』より。)

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