2009年6月17日 (水曜日)

ある編集者の歴史 そのこぼれ話 その七

Photo_2 注意!!! 豚インフル論議 

     本当の危険はどこにあるのか 

           吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB

 いわゆる新型インフルエンザの大騒ぎのほとぼりもさめてきた。水際封じ込めとか感染源追跡調査などに労力を費やすのが静まったところで、今回の流感騒ぎについての論議、事態から見えてきたものについて少しくふりかえってみようか。

今度の問題についていちはやく優れた時評を発信したのは4月29日のきっこの日記である。見出しは「自民党はアメリカのセールスマン」。豚インフルエンザが突如、新型インフルエンザに改名されたのは? 米国の農務長官の仰せでそうなった、米日の豚肉専門の大手企業(スミスフィールド社、輸入の住友商事、販売の住友フーズ)。他の国々は豚肉輸入を禁止したのに日本はやめず、70度以上加熱すればウイルス死滅と政府が宣伝させた。きつこさんは目が利いていて、その豚肉を持つ手や包丁、マナ板には元気なウイルスが増殖中の可能性があろうし、スーパーの豚肉部のスライサーで国産と輸入肉をいちいち区別して処理するだろうか、と疑問を投げかける。要するに国民の健康より米日大企業そしてアメリカさんの利益のほうが大事ということになってんじゃないのって訳だ。メキシコ・ヴェラクルス州(公害の属国輸出)の豚肉加工業大手スミスフィールド社の養豚場感染源問題もちゃんと書いている。またしても、自民党政府はアメリカのセールスマンだったというのである。アメリカの豚肉は安全ですよ、70度以上加熱さえすればね、と。‌

次に目立ったのがSHINYA TALK 藤原新也さんの「国家の安全とはリスク回避ではなくリスクを負うこと」である。

彼のNY在住の知人は、今度の流感はジャパン・インフルエンザだという。TVでも、はじめはメキシコだったが、すぐに町中マスクだらけの日本の映像。メディアのスクラム組んだ商業主義に加えて過保護と保身の蔓延はあろうが、それより気になるのはトップの決断力の脆弱さだ。万が一を考え安全策をというのは有り勝ちな話だが

「万が一」とは、いつ、いかなる時、所、でもというわけではない。仮に「万が一」というリスクに依拠して行動すれば、安全という絶対値の中で人間と社会は金縛り状態に陥ってしまう。今回の出来事はその格好の見本だろう、と。

そこで、そういう緊急事態にあっては国民を引っ張るトップの決断力が求められる。それにあたったのがマスゾエだ。彼は元タレントだけあって、第一報道を自分の手でやるのに妙にこだわり、それで横浜市とトラブルを起こしたりする。注目を浴びたいのはわかるが、記者への報道や説明はわざわざ大臣が出てくるまでもなく現場の厚生省官僚とその専門家側近で十分だったのではないか。そういう対処ひとつで事態はもう少し冷静に受け入れられたはずだ、と。

仮に、政治家であれば、事態をずるずる引き延ばすことによって生ずる経済的損失と足切りによって生じるリスクを天秤にかけ、冷静な判断の上、責任を負った行動を示すことが国民を引っ張るトップのあり方である、と。

経済危機で自殺者が増えているということはあるが、新型インフルエンザで死者がということは、現状ではきわめて現実味のない話だ。私(藤原)は戦争の少なからぬ戦記を読んだが、戦争とはあらゆる場面でトップが常に決断を求められる特別の緊急事態だ。トップの責任感と判断力と決断ひとつで大隊数百人の命が救われたり、逆に悲惨な死に方をしたりしている。今回の事態を戦争時の非常事態に置き換えるなら、手柄は立てたがるが、身を挺するトップは、いない、ということを痛切に感じる。それは昨今の政治と大人世界そのものではないか、と。

そして、最後に「ネチズンカレッジを発信し続ける畏友、加藤哲郎の6月1日の時評である。彼はインフルエンザ「発生」の地メキシコに出張講義のため、たまたまこの事態に遭遇し、いろいろ苦労もしたようである。全大陸的・全世界的に蔓延する疫病のことをPANDEMICパンデミックという。彼はパンデミックの政治と名づけ、パンデミックの政治学を説いている。ブナ林毎日更新の保存サイトで読んでほしい。最後の一行だけを引用しておく。

「しばらくメキシコに生活と研究の場を置いて痛感したのは、絶望的なまでに閉塞する日本の惨状でした。」   (2009.06.03記 よしだ ごろう)
参照HP-ブナ林便り」》

| | コメント (0)

2009年5月20日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼれ話 その六

Photo   二つの敗戦日記を読む 

       

         吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB



 恐慌が深まると、戦争待望の空気が燻ぶる。防衛費強化の世論醸成が前触れとなる。軍隊、戦争、絨毯爆撃などの悪夢は、敗戦後おさらばできたように思えたのも束の間、いまや再び・・・・である。

 かつての悪夢を、いやなこととしてあまりにも安易に忘れてしまい、成城の大先輩である大岡昇平が、辛苦して編んだ『レイテ戦記』のような作業を怠り、悪夢を誰もが納得できるちゃんとした『昭和史』として編み、みんなの脳裏に忘却できぬよう刻み込む作業を回避してきたのではなかろうか。大岡は、フィリピン人民を含めて死者・被害者との共振・共闘が志され試みられている、稀有の労作を遺してくれたのだ。市販の戦史、昭和史とはそこが違う。戦前・戦中学生時代、新聞部OBが共同制作で編んだ誇るべき集団的労作(私家版)『成城文化史』があるが、残念ながら空襲で消滅してしまった。それを細々と受け継いだ『新聞部秘密日誌』は、戦後プリントできて私も一部もっている。

 これらをいわば下敷きにして、いま、あらためて戦中日記の代表的なものを読もうと決心し、まず清澤 洌の『暗黒日記』(昭和一七年一二月九日~昭和二〇年五月五日)(橋川文三編集、評論社・復初文庫、1979年)と、山田風太郎『戦中派不戦日記』(昭和20年の日記)、(講談社文庫、2002年)の二冊を読み出した。次にまだ入手していないのだが、やはり有名な 永井荷風『断腸亭日乗』と、野上弥生子の『日記』(岩波の『野上弥生子全集』第二期の中の19冊)を、ぜひ読んでみたいと思う。

山田風太郎は、2001年享年79歳でなくなった。1922年大正11年兵庫県生まれだから、1921年石川県金沢生まれの私と一年しか違わない。鶴見俊輔も1922年生まれだったはずだ。しかし、まず違うのは5歳のとき父をなくし、中学一年から二年になる春、母をなくしている。私が父をなくしたのは兵隊にとられてからだ。山田は、母にも死なれ、やけくそになり、中学五年のとき停学となる。勉強はちゃらんぽらん、体格はひょろひょろ、親戚の回り持ちで養われている身。1942(昭和17)年、二十歳の夏に家出し、東京の沖電気に就職する。前年12月8日太平洋戦争勃発。就職は勝手にしたのではなく国営の職業紹介所指定で、軍需工場に勤めるよりほかになかった。働きながら医学校進学を目指す。受験料はない。郷里に頼れない。上司に借りる。受験勉強は全くしていない。試験は落第。1944(昭和19)年、肋膜を患い、肺浸潤。一週間後、召集令状。帰郷、徴兵検査。不合格、即日帰郷。帰京翌日が医学校の願書提出。入試合格。東京医専(新宿の東京医科大学)の学生となる。ときに22歳の春。

大学・専門学校修学年限切り上げは1941年10月に始まっている。医者になれば軍医、学生である特権は医学生のみに残されていた。山田風太郎『戦中派不戦日記』は1945(昭和20)年敗戦・最初の亡国の年のみの日記である。この日記の記述が始められる約1カ月前の1944年昭和19年11月24日、マリアナ基地のB29による東京への本格的空襲が行われている。この次の日、山田医学生は東京に来て、初めて知人とともに住む。開戦から三年目にして、<傍観者>であった東京市民が<傍観者>ではなくなる。日本が絶望状況に入った1945(昭和20)年、山田の絶望状況に、日本という国がはじめて近づいたのである。疎開先の飯田で敗戦を予感したとき、山田医学生は、日本という愚かな人間で満ち満ちている国を愛することができる。<可哀想な日本!>そう断言できたとき、その相手が死ぬときだったのだ。8月中の記述は、熱烈な日本への愛情で埋められている。狂った8月が過ぎ、9月冷静、くやしさ。淡々と愛してきた人は淡々と口惜しがる。「負けるって情けないことじゃなあ」ある老婆の述懐。「昨日の新聞の天子様のお写真はどうです。あの敵の大将と一緒の・・・お可哀そうになあ、あんまりウツリもよくないに・・・」。空襲を受けても、敗戦後も、庶民は、呑気であり、よく笑う。

連日連夜の東京空襲。牛込山伏町、もう何ともいえぬ妖気。罹災民の群れ、リヤカーに泥まみれの布団、赤く焼け爛れた鍋など、額に包帯した老人、幽霊のように髪の乱れた女・・・。あえぎあえぎ通り過ぎていく。店みせのガラスは壊れ、看板は傾き、壁は剥げ落ちている。これらは灰色の塵が厚くこびりついているのを見れば、この一夜で変貌したものではなく、過去の三年間、日本が苦戦に苦戦を重ねてきた陰惨な過去の三年間の結果に相違ない。鳥も鳴かない、青い草も見えない。鋪道のそばに掘り返された防空壕の上に砂塵がかろくたち迷い、冷たい早春の日の光が虚無的な白さで満ちているばかりだ。時々仰ぐ空には、西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる。四つ五つ火の塊に分解して落ちていく奴もある。・・・ザザッーダダダッと凄まじい音、ついに焼夷弾の雨。五反田へ行く大通りへ出た。とたん、ザザッという音、広い街路は見晴るかす果てまで無数の大蝋燭をともしたような光の帯となった。空は真っ赤に焼けただれ、凄まじい業火の海は轟いていた。煙にかすみ、火花に浮かんで、虫の大群のように群集は逃げる。泣く子、叫ぶ母、どなる男、ふしまろぶ老婆―まさに阿鼻叫喚だ。高射砲はまだとどろき、空に爆音が執拗につづいている。横浜はまだ燃えている。5月29日の朝やられたというのに30日、31日、6月1日、2日、3日の深夜まで、いったい何が燃えているというのだろう。月はまだ昇らず、ただ暗黒の中に、全市灰燼となった残骸が、赤い火をチロチロと不知火の大海原のように燃えつつ拡がっている。棒杭のような無数の黒い柱が蛇の肌みたいに光って、何たる凄惨、陰刻、粛殺の景か。・・・どっと罹災者が乗り込んできた。大半は負傷者。丸太のように足を包帯で巻いた少女、手を首でくくった老人、仲間にかつがれてきた物体はミイラのように全身包帯で、顔面に眼と鼻と口が四つのちいさな穴、老人か女かの見当もつかない。可哀想に可哀想にという声が聞こえた。

山田風太郎はあとがきに書いている。「・・・・自分で読んで背に汗が出るような部分も、当時としてはそのように書く何らかの必然性があったのだ。しかし、それよりも忸怩たらざるを得ないのは、結局これはドラマの通行人どころか、「傍観者」の記録ではなかったかということである。むろん国民のだれもが自由意志をもって傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても―例えば私の小学校の同級生男子34人中14人が戦死したという事実を思うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、ある意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあった。そしてまた現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごときである。昭和10年以前の「歳月と教育」の恐ろしさもさることながら、それ以後の「歳月と教育」の恐ろしさよ、日本人そのものがあの当時は今の日本人とは別の日本人であったのだ。当時すでに、いまとは別人の逆上気味の私でさえ、戦争に対するものの見方は公平に見て私のまわりとはややちがうことを自覚していた。今ふり返って失笑ないし理解を絶するところは、ほかの人々にはもっと多量に存在していた。しかし、それはほんとうに別の存在であるか。私はいまの自分を「世にしのぶかりの姿」のように思うことがしばしばある。そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。また三十年ほどたったら、いまの日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにはならないか。いや見ようによっては、私も日本人も、過去、現在、未来、同じものではあるまいか。

げんに「傍観者」であった私にしても、現在のぬきがたい地上相への不信感は、天性があるにしても、この昭和二十年のショックで植えつけられたと感ずることが多大である。人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起こすことも。 昭和四十八(1973)年二月 山田風太郎」

私は1942(昭和17)年、大学を繰り上げ卒業。文学部は独文を一年で見切りをつけ西洋史科に転科したから西洋史科には一年半しか居られなかった。10月1日、九段の近衛歩兵第一連隊に現役入隊し、1943(昭和18)年以降は近衛師団司令部参謀部情報班の班員として、空襲・防空情報の収集、隷下連隊への伝達を仕事とした。いま、ふりかえると、いまの北の丸公園の一角に残る国立近代美術館別館工芸館の建物になっている司令部におさまり、東京空襲時には千鳥が淵に面した防空壕にかくれ、空襲の被害状況を電話で収集整理するという、情報班といえば格好がいいが<傍観者>にすぎなかったと思う。医学生山田とは比べものにならない<傍観者>だったのだ。しかも、東京船舶隊という本土決戦に備えたいわば実戦部隊の司令部に移り、5月25日の東京大空襲で司令部にしていた伊皿子坂上の邸宅が消失し、横浜野毛山に移った司令部が、5月29日の横浜大空襲では焼け残り、のうのうと生き延びられた<傍観者>にすぎなかったといえよう。東京の5月大空襲、横浜大空襲も体験し、世田谷区東松原の家は焼失しながら。あれが「体験」といえるのか。

Photo_4 続けて、清澤洌の『暗黒日記』を読む。



 清澤 洌(きよし)彼は正木ひろし桐生悠々、あるいは石橋湛山とともに昭和前期におけるあ稀有のリベラリスト、独立派の言論人であろうか。

 長野県南安曇郡北穂高村の人、1890(明治23)年生まれ。敗戦の直前、1945(昭和20)年5月21日に急性肺炎のため聖ルカ病院で急逝。生涯の仕事は外交史研究と評論。昭和17年12月から、死ぬ直前の昭和20年5月5日までの戦中日記は、英訳され米国で出版、日本版は橋川文三北岡伸一が解説と構成に当たり評論社から出版された。ちくま学芸文庫にも入っている、清澤洌の『暗黒日記』である。

この日記の昭和19年1月4日のところに熱海の岩波茂雄別荘で二男坊岩波雄二郎(当時東大西洋史科学生)に会い、「中々頭が確かである。」と書いている。彼は旧制成城高校新聞部の私と同じよき仲間で、彼のことは先に書いた。1941年夏の北軽井沢の岩波別荘での合宿や小海線沿線での小旅行など、われわれ青春の思い出がある。清澤の日記に書かれているときは、私は既に兵隊にとられて、軍隊にあった。

さて私は山田風太郎の戦中日記に次いで、この『暗黒日記』にとりかかった。かねがね読みたかった本である。彼自身述べている。「私は全くの独学者です。正式に学校の門をくぐったのは、ほんの暫くの間だけでした。しかし、今から顧みて、学問というものは、学校に行くということではないと考えます。物を学ぼうという精神のことなのです。三ヵ年、学校へ行って勉強するよりも、三十ヶ年、たえず知識を吸収する方が、結果がいいことは確かです」。彼のきわめて広い国際的関心は彼の米国はじめ世界を股にかけた生き方と切り離しては考えられない。彼が影響を受けた井口喜源治研成義塾内村鑑三に共感した無教会派の井口が北穂高に開いた私塾であった。日本と世界と神との三位一体の信念の上に立つならば、日本が世界から孤立して独善の知識をもち、独断の行動を行うことは不可能でもあり、許されることでもない。その精神において 世界についての無知と戦うことが、彼の生涯の仕事となる。日記はその戦いの記録となる。

 清澤は昭和4年のころからすでに自称愛国者たちの攻撃目標にされ、のちには非国家主義的リベラリストとして言論報国会からボイコットされている。事実、当時の政治指導者に対し忌憚ない批判を続けたし、国民に対しても痛烈な批判を行っている。冷然と日本を批判するかのような姿勢の根底にあったものは,国士ともいえる烈々たる愛国者の気概である。時局を冷眼視するだけの口舌の徒ではなかった。

 彼は刻々迫るデッドエンドを悲痛な気持ちで見守りながら、それを克明に記録してゆく。

○ 「現代史」を後日、書くために記録に止めおかんとするにすぎず。

○ また、後日の資料にくだらない雑書類も買い集めておく。

清澤は一貫して、日本の戦争指導に含まれる巨大な暗黒のシステムを、すべて<教育>の歪みから生まれたものと考えている。自ら日本の高等教育過程をふまなかった清澤には、日本の教育システムの決定的な歪みがより冷静にリアルに感知されたのであろう。

 迫りくる敗戦で日本の国民はより賢明になるだろうか? 彼はむしろ敗戦と亡国を体験してもなお、日本人の真の覚醒は望めないのではなかろうか、という疑念を抱いていたと思う。彼がまず指摘したのは、官僚主義(お役人の感覚)、形式主義、あきらめ主義(いい加減さ)、権威主義(おえらいさん)、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性等々。日本人の劣性(負の側面)の余すところない指摘。敗戦後日本の真の再生を 祈念する愛国者の厳しい自己反省。以下、部分引用を少し試みるが、ぞっとし、絶望するのは、この暗黒日記で指摘されている日本の指導者・政治家、主権者たるべき国民、それら総ての今日における負の側面がそこここに見受けられると思わざるを得ないということである。

 私自身の課題から言うと、教育は敗戦後どう再建されたのか。教育システムはどうなってきたか。私たちの国際感覚はどう改造されたのか。世界認識、世界史認識は果たして健全に創造されたといえるのか、という問題である。

(以下 部分引用)

清澤洌の『暗黒日記』昭和一七年一二月九日―昭和二〇年五月五

日、(橋川文三編集、評論社・復初文庫、1979年)

 昭和17(1942)年12月9日以降

○政党の弊害、役人の弊害、結局教育だ。

○ラジオの低調はもはや聞くにたえぬ。

○それにしても政府の権限強化驚くべし。しかもその政府は何等統一せず。

昭和18(1943)年

○モラールの問題だ。日本は全く行き詰まったのだ。

○形式主義は総てに表現す。外交に,統制に、政治に。

○議会はただ自己欺瞞のみ。不思議なる国民である。かかる自己満足で満足しうるとは、信ぜんと欲することは信じ得る国民だ。

○歴史を正直に書けぬ国だ。

○日本人の美徳はあきらめにあり。しかし積極的建設は到底不可能である。馬鹿な国民に非ざるも、偉大な国民に非ず。

○毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国においてかくのごとく貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要な時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。

○だが改まるだろうか。紙の上で形式主義の政治と観念遊戯と、他人の事を考えない国民の悪風は改まるまい。近頃、日本人というものが、ほんとに情けなくなった。

兵務局長が小学校教育のことを指導しているが、国民学校に配属将校をつけるとなると全く軍国政治だ。今でも専門学校以上は配属将校ニ非常に力があるのだから。

○朝のラジオを聞いていると、昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。こんな低俗な時代がかつて、また世界にあっただろうか。

昭和19(1944)年

○帰りに岩波茂雄君を訪う。・・夕食をご馳走になり泊めてもらう。長男雄一郎芝浦の研究所、次男雄二郎東大の西洋史科・・・朝・・僕と二男坊と一緒に食事す。中々頭が確かである。

○東条は官吏を昔の士族と心得ている。したがって民間を一歩下の被統治階級と心得ている。大東亜戦争―満州事変以来の政情は、軍部と官僚の握手である。戦争を目的とする者と、一部しか見えない事務家、しかも支配意識を有している者とが混合妥協した結果生まれたものである。

○陸軍と海軍の感情的対立は,既にボイリング・ポイントに達している。日本の前途はこれに表徴されるところが多い。

○教科書は出来ない。燃料は行かぬ。漁業用油の配給では出漁が数日しかできぬ。交通関係はいうまでもないで―それ等がようやく切迫して来たのである。戦争そのものの結果ではあるが、同時に無茶な徴用、徴兵、所謂重点主義等の経済関係のデリカッシーを知らざる政府のためにここに至ったのだ。日本はいよいよ国内的に行きつまって来た。これがどこにどう出るかが次の問題だ。

○官僚主義、統制主義の欠点は、日本のおける数年の実験によって完全に明らかにされた。・・・統制主義、官僚主義は日本を亡ぼす。

日本は泥棒国となった。「神国」である国は、しかし泥棒であっても差し支えないのである。・・・泥棒は常時の姿となった。今後ますますひどくなるであろう。

ラジオや新聞には、戦争観につき―たとえば米国の戦力につき「楽観も悲観も禁物である」といった表現が流行している。なにも考えるなということなのだろう。

○日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当たったのだろう。おそらく数十人を出でまい。秘密主義、官僚主義、指導者原理というようなものがいかに危険であるかがこれでもわかる。来るべき組織においては言論の自由は絶対に確保しなければならぬ。また議員選挙の無干渉も主義として明記しなけれ

ばならぬ。官吏はその責任を民衆に負うのでなくては行政は改善できぬ。・・・我国における弱味は将来、この戦争が国民の明白な協力を得ずして、始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実戦争を欲したのであるが。この時代の特徴は精神主義の魔力だ。米国の物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は「自由主義」「個人主義」で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本には日本精神があって数学の上では現わし得ない奇蹟をなし得ると考えた。それが戦争の大きな動機だ。

○重臣と閣僚の間でも真実を話さない。日本には正直に政治を語る機会は全くないのである。これが大東亜戦争以前から日本の特徴だ。日本を動かしつつあるは憲兵と警察である。そしてその背後にあるは軍部である。

○七月二十九日号の『東洋経済』は石橋君の筆として「東条内閣は民心を喪い、広く天下の人材から見放された」と書いている。これだけ書けるのは石橋君以外にはなし。

○米内は組閣終了の当日、記者との会談で「軍人は不具の教育を受けてきた」といった。総理大臣が軍人、満洲大使、朝鮮総督、台湾総督は何れも軍人、実際政治を運用しているのが軍人、これで日本がうまくいく道理なし。無智が指導しては。日本の重要職業、会社、官吏は全部軍人で占領。首相,海相、東京市長、翼賛会,翼壮団長、総て、然り。

○陸軍の発表が出鱈目であることは左の数字でも分る。すなわち本土襲来のB29を百二十機を撃破したというのである。東京の制空権は今や敵軍に渡った。敵はいつでも日本を襲うことができる。しかも極めて安全である。

昭和20(1945)年、敗戦の年、亡国の年

○日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を讃美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは、「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか、それを今、彼等は味っているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。当分は戦争を嫌う気持ちが起ろうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。

○日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界の一等国となることはできぬ。総べての問題はここから

出発しなくてはならぬ。日本が、どうぞして健全に進歩するように―それが心から願望される。この国に生れ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように―。「仇討ち思想」が、国民の再起の原動力になるようではこの国民に見込みはない。僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける.・・後世を目がけて努力しよう。

○教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ「技術」だけを習得した結果だ。彼等の教養は、義士伝以上に出でぬ。とくに「軍人」という中産階級以下の連中が大量に押し出したのである。戦争というものの「力」を思う。一晩の内に何十万戸を焼き尽くし、さらにその残ったものを一通の命令書で取りこわすのである。米国の戦後処分

案を待たずに、日本はすでに日清戦役以前の資産状態にかえりつつある。・・・戦争は文化の母であるか?

○官僚と軍人の政治というものが、こうも日本を滅茶にさせてしまったのだ、ああ。

○どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられて行っている。誰も戦争に飽いたことが察知される。

○この火事を見、火事と戦って、僕は何か憎くて痛憤した。怒り心頭に発すというのはこの事だろう。・・・「こんな戦争をやるのは誰だ」と、僕はこの愚劣な政治と指導者に痛憤していたのである。

○沖縄の戦争は、ほとんど絶望であるのは何人にも明瞭だが、新聞はまだ「神機」といっている。無論、軍部の発表によるものだ。国民は、愚かな田舎人でもこれを信じまい。誰も信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。

○日本は近代戦争などをしうる状態ではなかった。軍人は最後まで、「東京へは絶対に敵機を入れない」とか「麹町区には飛行機を入れない」といっていた。いま彼等は何という? しかし国民の軍人に対する反感は、嘘のように少ないと思う。軍部に関する批判は一切させないからである。そしていわれなければ気がつかないほど低劣だからだ。しかし永遠に気がつかないだろうか?

(抜粋 以上)

ああ、今日といかに似ていることか!!!

2009.04.27記 よしだ ごろう


※【参考HP】/
聖書案内」(経堂聖書会編集「若木」44号「井口喜源治と研成義塾の教育-ジャーナリスト清沢洌のこと」風間文子

| | コメント (0)

2009年4月15日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼれ話 その五 

Photo     異境の都市 フェズ
               

         吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB


 親戚の石垣貞一さんは日赤に勤めていて世界各地を旅行する度に軽妙で味のあるスケッチを残された。今は亡くなられたが、私が気にいって戴いたスケッチは幾枚か、西安やトレド、そのなかでもマグレブモロッコの古都フェズを描いた一葉は、PC作業をする机の脇の壁に掲げてある。一見、昔何度も見たジャン・ギャバン演ずる
"ペペルモコ"の悲恋を描いた『望郷』の舞台、アルジェーのカスバの遠景のようだ。、しかし、もっと奥のありそうな古都の風景である。この画を巻頭に置いて書いた最初の文章が、《ブナ林便り》の『世界史瞥見』の下記のような巻頭言である。

黒田美代子さんの労作で『商人たちの共和国』(藤原書店、1995年)という本がある。シリアのアレッポにある、世界でも最古に属するスークの現地調査に基づいて書かれたもので、黒田さんの処女出版にあたるこの本で、私は初めてイスラーム世界の人々の生き生きした生きざま、彼らの共同体の活力を、まざまざと感じることができ、そこに生きる人々のおおらかさと叡知に共振を覚え、羨ましく思った。まさに、黒田さんが言うように、それは「先進世界といわれる場所での生活よりも、はるかに心なごみ、奥深いもの」である。それはなぜであろうか。

「スーク、それはイスラーム世界にみられる、伝統的な経済活動を行う市場であり、そこは「定価」によらない「一物多価」の「交渉」の世界である、という。エキゾチックな雰囲気の中に、所狭しと小さな店々が雑多に集まる この市場の時間と空間の構成は、西欧的・近代的な世界の市場とは全く異質なものである。」

 『商人たちの共和国』の包装紙の文章を専ら引用させてもらうことになり恐縮だが、「スークの人々の生きざまは、ミルフィオーリと呼ばれる硝子器を思い出させる。束ねた着色硝子を輪切りにして組合わせ、融合するその硝子器は、成形の過程において一々の部分は強い熱気で玄妙に変形し、その非画一的な諸部分が集まって、迫力ある美しさを醸し出す。「千の花」を意味するこの変形した細部は、個々の花それぞれの差異性を見事に保証し、同時にそれらに炎のような生気を与えているのである。」イスラーム世界の特性、差異性を生かした社会と生活、それがいかようなものであり、それが私たちにとっていかなる意味を持つだろうか、こういう問題を解き明かしているのが、黒田美代子さんの労作である.

(画像説明 マグレブの古都フェズ 石垣貞一氏描く)

この文章を書いてから10年近くたち フェズについての私たちの見聞もいくらか増えたと思う。石垣さんのスケッチの秘めるフェズの異境性が少し見えてきた。まずフェズをいつも気にはしていたが流謫の終着地はモロッコのタンジェに定め、その地で89歳の生涯を終えた特異の文人ポール・ボウルズの作品『蜘蛛の家』、そしてボウルズの訳者四方田犬彦の『モロッコ流謫』、ぞして文化人類学者米山俊直の『モロッコの迷宮都市フェズ』をあげたい。

もちろんフェズの迷路をカメラで写した二作、

A 『フェズ(モロッコ)』
9.pro.tok2.com/~yucky/chikyu-1syuu-
ORT-moroco-fez.html

B 『フェズ前後編』
iseki.travel-way.net/fez1.
http://isekidai.fc2web.com/fez2.htm

を、ぜひ見るとよい。 Bの写真のはじめをごらん。<もうごちゃごちゃです 上から見てもわかります なんたって道が見えない。まぁ近寄っても見えませんけどね では、いよいよフェズの中へと入ろうぞ 世界一の迷路へようこそ・・>以下迷路の連続です。

フェズの旧市街(フェズ・エル・パリ=メディナ)は都市の北東に位置し、四○万という全人口の約半分がここに住んでいる。」

 四方田犬彦は言う。「今、フェズは私の眼前に広がっている。北側にあるギッサ門そばにあるパレ・ジャマイから見下ろしてみると、盆地に発達した旧市街全体が、蟻か蜂の巨大な巣窟のように見えてくる。耳を澄ませてみると、微かに驢馬の鳴き声や、鋸で木材を切る音、店の呼び声、荷車が径を行く音といったさまざまの音声が混じりあって、名状しがたい音が立ち上がってくるかのようだ。」

 古来の城壁と門に囲まれたその内側に一歩足を踏み入れると、そこは一面の群集で、肉、野菜、香料からありとあらゆる日常品を扱う市場が延々と続き、モスク、塔、染物工場、噴水などがそのあいだに点在しているという印象を受ける。ボウルズの言葉を借りるならば、「人々の群れのなかに迷い、群れに沿って、どこへ行くかもわからぬままに、またいつまで続くかも知らぬままにさ迷って、ようやく人はその美しさの一端を垣間見ることができるのである。」訳者はかつてこの邑を「崩れ出した蟻塚のような」と形容したことがあったが、実のところ、城門から足を進めるに従って、中央にむかってどこまでも下降していくこの邑の構造は、蟻塚というよりも、むしろ円錐状の蟻地獄に喩えることがふさわしいのかもしれない。(四方田犬彦)

北はリフ山脈、南は中アトラス山脈に挟まれた広い盆地に創られた都市フェズは8世紀終わりに建設されて以来、モロッコ諸王朝の王都として数百年の歴史を担ってきた。10紀には世界最古の大学のひとつカラウィーン学堂の礎が築かれ、以後西イスラム世界の信仰と学問の中心として生き続けた。ここから西欧にイスラム数学が伝えられ、スペインのムスリムの大移動により学問・音楽などの交流が盛んに行われた。13世紀から14世紀にかけて栄えた王都フェズは16世紀マリーン朝の没落とともに衰退、王都はマラケシュに移り、フェズは発展から取り残された。19世紀フランスがフェズ条約でモロッコ統治を始めたのは日本の韓国併合と同時期である。総督りヨテ将軍はフェズの旧市街を手付かずに残し、新市街を旧都の側に創るという政策で、フエズの旧市街を中世的雰囲気を破壊せぬよう気を配った。古きよきフェズが保たれたのには日本の植民地支配とは異なるこういう経緯があった。

古都フェズは京都とときに比較されるが、整然と区かくされた京都とは全く違う。王都としての盛期、王都ではなくなった衰退期、この時期の相似性が両者の比較を生む。

 フェズを特異な外国人の目で描いた問題作が、米国人作家ポール・ボウルズの『蜘蛛の家』(1955)である。彼は生涯転々と居所を変え『止まることなく(自伝)』最後はモロッコのタンジェに住み、89歳の生を終えた作曲家・作家・モロッコの伝承・民俗音楽の翻訳者・記録者である。

 『蜘蛛の家』では仏統治下のモロッコ フェズの1950年代を舞台に設定している。スルタンのムハマッド ベン ユーセフが反仏抵抗独立組織イスティクラル を公然と支持しフランスへの抵抗を企て、ドゴールの怒りを買い、1953年マダガスカルに流刑され、新たに傀儡スルタンがたてられた。だが民衆の反発は強く反仏の空気は高まり、仏当局は容赦ない弾圧を加えた。小説の時は、1954年のフェズ、ラマダンから開けの羊の大祭までの二ヶ月間、フェズの「一番長かった夏」である。ボウルズはこの年の晩春フェズを訪問し仏軍戦車に包囲された旧都の有様をその目で見ている。 かつての学問の都フェズはカラウィーン学堂を中心に反仏抵抗運動の中心となっていた。フェズは一時、混乱と無秩序に陥った。しかし、1955年フランスはついにイスティクラルに屈服し,先王の帰国を許し、翌1956年にはモロッコが独立するとムハマド五世となった。

ボウルズは、十五歳のモロッコの少年アマールとモロッコ・タンジェに住む米国作家ジョン・ステンハムを対の主要人物に設定する。一章から十四章まではアマールの目で、プロローグと十五章から二十三章までをステンハムの目で、第四部はその二人とリー・バロウズという米国人女性にわりふる。

 世界観のまるきり異なる他者どうしを互いに相手を見るレンズにすえることで世界を複眼で捕らえようとしている。アマールはイスラム的道徳観に縛られ、ステンハムは狭い唯我論的傾向。偏ったレンズに映る世界の姿、政治・社会・文化に対する差異。

 支配vs.被支配、中心vs.周辺、善vs.悪、優vs.劣という図式では割り切れない現実、西欧キリスト教世界と非西欧イスラム世界それぞれの内部における思想的・宗教的・政治的差異への注視。ボウルズは、他者を理解することの困難さと不可能性の問題を歴史的な規模で示唆しようとする。

 旧世界の崩壊を味わったアマールは親しくなれたと思ったステンハムにも見捨てられ、出自も来歴も喪失したまま、路上に置き去りにされる。

フェズはかつての栄光を取り戻せないまま中途半端な近代化の下、伝統的なありかたは危機に陥ろうとしている。70年代に入るとユネスコは旧都を世界文化遺産に指定した。『蜘蛛の家』の訳者、ボウルズの紹介者四方田犬彦は言う。

 「わたしがフェズのメディナでもうひとつ感動するのは、この一見混沌に見える巨大な邑が、よく観察してみると実に細かな秩序をもち、機能的にして厳密な法則のもとに造りあげられているという事実である。」として水道設備,噴水・・・。「この邑には見えないところで、毛細血管のように精密な水脈が存在しているのだ。しかしその事実を思い出させるのは、絶えることなく吹き上げる噴水の水ばかりである。ここまで考えが及んだとき、いかにも達観した地点からフェズを迷路とよんですますことにさほどの意味がないことが瞭然とする。わたしが立っているのは、深く考え抜かれた都市空間であり、それはけっして崩れ出した蟻塚の比喩をもって語りうるものではないのではないか。ただ、ホテルの尖塔の上に立って眺めているかぎり、それで秩序を欠いた混沌といった印象を与えることは否定できない。わたしは『蜘蛛の家』の主人公のひとりであるアメリカ人が感じている認識の限界を、ボウルズが充分に察知しておきながらも、その先をさらに一歩踏み出せなかったことを、残念に思う。」(四方田犬彦『モロッコ流謫』第二章 蜘蛛の迷路フェズ89-90頁)私が最初にフェズについて読んだ本は、文化人類学者米山俊直の『モロッコの迷宮都市』平凡社1996である。ライフヒストリーという方法で現在のフェズを描き出そうという米山の筆に協力したのは、若い写真家でほとんどフェズに定着し、ムスリムにもなった村川敏弘である。彼がモスクや聖地に入れて撮った貴重な写真なしにはこの記録は生まれなかった。ライフヒストリーとはどういう方法だろうか。個人の人生の経験を聞き取り、それを年代順に並べたりする編集を行い、テキストとして準備し、それを素材にして、その個人の属する社会集団なり、文化なりを研究する方法である。自叙伝や伝記作家の手になる伝記を含めて、広く「伝記研究」というジャンルとしてひとまとめにすることもある。医者の患者からの病歴の聞き取り、刑事の容疑者からの犯罪暦の追及、新聞記者が取材で相手の履歴を知ろうとするなど一種のライフヒストリー調査といえよう。人類学や民俗学、社会学ではよくこの方法を用いる。

オスカー・ルイスの『サンチェスの子供たち』(みすず書房、1959年)、宮本常一の『忘れられた日本人』(未来社、1960年)、谷泰牧夫フランチェスコの一日』(平凡社ライブラリー、1996年)、米山俊直『北上の文化ー新遠野物語』(社会思想社、1962年)、エドワード・ウィンターの『月の山のかなた』(講談社、1972年)、同『ライフヒストリー研究入門』(ミネルヴァ書房、1992年)、米山・橋本共著『生活学のプラクシス―新大阪の研究』(ドメス出版、1990年)等々。

 現代は一つの村や社会集団のなかでも、一つの家族内でも、兄弟同士でも、世界観、人生観、感覚、意識が違い、行動の仕方も違うのがあたりまえである。また、いわゆる自分史ブームでもある。一度だけの聞き取りではなく、繰り返し聞き取り親しさを増すということもある。ライフヒストリーは語り手と聞き手の共同制作でもある。

 米山俊直は1989年から二年間、三度にわたりフェズを訪れ、五つの家のライフヒストリーを聞きとっているが、「フェズの町について、これらの人々の話はかなりのことを伝えてくれるだろうと思う。しかし、いまや人口が一○○万人に達しようとしているといわれるこの都市を、これだけの人々だけを代表させてしまうことはできそうもない。明らかなことは、一国の調査対象として私が選択したこの<サンプル>の人々は、数が限られているうえに、ほとんどが高等教育を受けた人々である。そして、経済的社会的地位も、フェズ社会のモロッコ社会においてばかりか、国際的にも地位の高い人々である。この人たちは、フェズの生活の知的、思索的、美的な側面を代表するには適当かもしれないが、一○○万人の民衆の、渦巻くエネルギーを示し、雑踏,喧騒、繁華の雰囲気を伝えることはできない。そういう限界は明らかである。」問題はこのような町の描写である。

《参考資料》

ポール・ボウルズ『作品集』(全6巻)、特に『止まることなく』『蜘蛛の家』

   四方田犬彦『モロッコ流謫

   米山俊直『モロッコの迷宮都市フェス

   NHK『世界文化遺産』アルジェーのカスバ、モロッコのフェズ

   ネット『フェズ』 前編、後編

   iseki.travel-way.net/fez1.http://isekidai.fc2web.com/fez2.htm

   ネット フェズ 

   9.pro.tok2.com/~yucky/chikyu-1syuu-ORT-moroco-fez.html

【参照資料HP】

山田浩之研究室映画道楽

| | コメント (0)

2009年3月18日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼれ話 その四

2 野上弥生子の未完の長編『森』を読んで
             吉田
悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB     
   

 1941年夏、私たち新聞部出身の仲間たち五人は北軽井沢の別荘で十二日ばかりの共同生活をすごした。「独ソ開戦」、「極東にも戦争近し」等の重苦しい空気の中で、私たちは青山の澤田兄弟宅のサロン、新宿「エルテル」、学内の喫茶室等で、低い声で議論を続け、未来への希望を固めた。この夏の北軽井沢の合宿は私の翌年の現役入隊を控えてのものだった。『反デューリング論』の輪講、シラーの『群盗』、キルションの『すばらしき合金』、チエホフの『桜の園』の本読み等を通じて友情を強めた。このとき岩波雄二郎の案内で、同じ北軽井沢におられた野上弥生子のおばさんをみんなで訪問したことがあった。野上さんの日記にそのことがないか調べたことがある。そういう縁もあって今度おくればせながら読みそびれていた『森』を読んでみた。

明治33年、つまり1900年、野上弥生子すなわち菊池加根は九州臼杵から上京する。時に15歳、巣鴨北方の日本女学院(明治女学校のこと)―森の自由の学園に入学するために。明治女学校は、キリスト教精神に基づいて,因習などにとらわれず自らの考えを持ち自立して行動する女性を輩出した。そして『森』は、明治の女性たちの自立への物語であるとともに、幕末から明治30年代末(1906年まで)に至る文化史になっており、明治の群像が瑞々しく蘇り女学生の恋愛、友情、嫉妬・・・、加根をとりまく若者の群像が細やかに描かれている、実に豊潤ないわばロマネスク小説である。木下尚江島崎藤村巌本善治北村透谷、そして荻原守衛・・等々。

さて、明治女学校(小説では日本女学院)に通学した加根の寄宿先は叔父の家で本郷向ヶ岡にあり、雨の日も雪の日も歩いて通学した道は「一高前からT字形にのびた直線にそうて東片町、白山、曙町、原町、西丸町・・と一度の屈折もない延長を、どこまでも、どこまでも辿ることで次第に東京をはずれて板橋街道にはいり、学校のある森に達する」。「本郷、小石川と区がかわり、それをも通りぬけるうちにやがて右手に現われる岩崎の別邸という深林になった一郭にそうて行くと、よく雉子が鳴いた。」そしてとげぬき地蔵(高岩寺)をすぎると学園の森に近づく。この加根が歩いて通った道は、私が府立五中に通学のとき、通いなれた道でもある。西片町から白山通り、駕籠町、五中、すぐ大和郷、巣鴨である。加根が歩いたのは、私にとっても懐かしい通学路であった。

「しかし路上はいっそう賑やかで、まん中は歩けないほど混みあった。近在からこやし車が、姉さん冠りに襷がけの娘や、ねじり鉢巻のお百姓さんに押され、路上いっぱいにきしめいて来る。午後の帰り道でも、この特別な群れにもう一度出逢わねばならない。その時、車台にぎっしりおかれていた空の桶は。ことごとく充たすべきもので充たされ、どうかして桶のたがが弾けたら、そこいらじゅう汚物の洪水になったに違いないほどの量を、なにか動物的に強烈な臭気で証拠だてながら帰る。馴れないうちは加根は吐きそうにむかむかした。しかしそれらのむさい繁昌のあとは、通りはふたたび空っぽになるのである。日本女学院の一般の学生は交通の不便には困らず、こやし車の憂目も見なかった。ほとんどが寄宿舎にいたのだから。加根のように通学するのは五、六人に過ぎない。全校の学生も残らずかぞえても数十人いるかいないかだから.教室も最初別荘のように見えたカテージ式の洋館の、二階と階下にある四つの部屋に過ぎなかった。」

特に興味をもったのは、加根たちの関心を集めた おなじ森の小屋に住む画学生の篠原健(モデルは荻原守衛)のことである。荻原守衛は明治32年(1899年)20歳で巌本善治を頼って長野県南安曇郡東穂高村矢原から上京、明治女学校の校地内に住み東京の画塾に通った。そして明治34年(1901年)渡米を決意する。米国で画の勉強をし、やがては渡欧しようと考えたのであろう。

「・・・健(荻原のこと)・・・の瞼の裏には、長兄の眉根にきざんだ顔があった。画修業、そのための上京に最後まで首を振ったのはこの顔だ。でも健がもって帰った相談では、父よりいまは家の主催者たる兄にぶつからなければならない。ことに東京どころでなく米国行で、幾十倍ものかけはなれた距離の隔たりはなにより旅費に現われる。横浜からサンフランシスコまで三等の船賃が、一ドル十円としての換算で百八十円かかる。これもうどん好きの英語教師によってえた知識で、まさに大金であった。毎月のわずかな仕送りさえしぶしぶの長兄に、それを請わなければならない。辛いことだ。明ければお正月というもっともお目出度い時に、彼はもっとも厭わしい話をもち込むことになるだろう。・・」

ここまで読むと、私はすぐ明治37年(1904年)東京蔵前の東京高等工業学校(のちの東京工業大学)電気科を卒業し、同年「片道切符」(たしか亡父から聞いたと思う)で渡米し、スタンフォード大学の電気工学部(?)に入り、皿洗いなどの苦学をして、明治42年(1907年)同大学を卒業。帰国して京王電鉄技師から金沢に市電(街鉄)を敷設する技師長となり、技師―管理職の生涯に入った亡父のことを思い出したのだ。

父のことは「自分史略年譜」(下記)と『歴史地理教育』誌に連載し未完のままの「体験的世界史遍歴抄―アメリカとの出会い―」に少し触れたことがある。厳格無口だがきわめて開明的な父であったと思う。野上弥生子が描いた健(荻原守衛)の渡米の苦労と亡父の苦学渡米の労とがダブって想念を去らないのである。時も明治30年代から明治40年代はじめと似ている。荻原は東海岸、亡父は西海岸への渡米である。二回目の東京大空襲で焼けてしまったが、アルバイト先の自転車(当時高級自動車なみの値段だ)を壊してしまって途方にくれている簡単な日記を保管していた記憶がある。卒業アルバムは残っていたが、あの帽子、あの礼装の写真は載っていなかった。大学構内のスペイン風な建物などは記憶に残っている。

そこで二村美朝子さんのご夫君の二村一夫さんにうかがいをたてた。当時の船賃三等でどのくらいでしょうか? 資料はどこにあるでしょう? 早速ご返事をいただけた。資料は国会図書館の近代デジタルライブラリーで、ネットで読むことができる。キイワードに「渡米案内」と入れて検索して見よと。当時渡航費用として最低必要な額は150円から170円程度だったろう、ということだった。そしてそのころだったら多分サンフランシスコの大地震を体験されたはずという示唆まで頂戴した。

この1906年の大地震だったら確かハリウッド映画で見たことがある。給料から換算すると明治の一円は現在の2万円ぐらいの重みであるといえるかもしれない。荻原も亡父も、渡米費用で貧しい実家を随分悩ませ、自分も苦しんだことだろう。荻原は1901年から東海岸で絵画を学び、1903年には渡仏し、ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。渡米、渡仏をくりかえし、1907年フランスでロダンに会え、1908年帰国し、やがて碌山を号する近代日本彫刻のパイオニアとなり、「女」(相馬黒光がモデルと噂される―TBS「碌山の恋」)など遺した。国立博物館碌山美術館、近代美術館蔵の諸作品。

亡父が敷設した金沢市電(街鉄)は1967年廃線となり、いまは「在りし日の金沢市電」(ネット)などでその面影を偲ぶのみである。そのネット上で線路敷設当時の亡父の懐かしい遺影を見つけた。口ひげをはやし背広姿・・・。亡父は私の軍隊時代、脳溢血の闘病の後、1942年になくなった。1881年生まれ。ちなみに、野上弥生子さんは1985年3月30日、享年101歳(満99最)でなくなられている。墓所は鎌倉東慶寺。代表作『迷路』が軍国化の昭和史である。

《参考資料》

       野上弥生子  森  1985   新潮社

       野上弥生子            

      明治女学校」展          

       荻原守衛(碌山)の経歴      

       萩原禄山             

                          STANFORD UNIVERSITY                  

       サンフランシスコ地震       

                         東京都立小石川高等学校      

       在りし日の金沢市電 123    

       体験的世界史遍歴抄アメリカとの出会い-

       歴史地理教育251~253,258~261,266

       自分史略年譜(2000年まで)   

       北軽井沢と大学村の道

             野上弥生子書斎の情報
                         
野上弥生子文学記念館

              2009.03.02記 よしだ ごろう

付記

粗稿について大事な指摘を二村一夫さんから戴きました。

                 ◇

これは、野上さんが『森』で書いておられることなので、いたしかたないのですが、野上さんがアメリカ行きの船賃としてつぎのように書いておられるのは二重の誤りがあります。

「横浜からサンフランシスコまで三等の船賃が、一ドル十円としての換算で百八十円かかる。」

1)円ドルの換算比率は、明治初年では1ドル1円であったものが1880年代半ばから円安に動き、1890年代後半以降 戦前期は1ドル2円前後で推移していました。野上さんが「1ドル10円」という換算比率を何によられたのか分かりませんが、勘違いだと思います。

2)一方、船賃の方は3等でもドル建てなら50ドル前後でしたから、こちらはずいぶん安く見積もっておられます。もっとも2等の円建ての船賃ですと150~180円程度だったようですから、野上さんは円建ての中等船賃から逆算されたのかもしれません。

3)玉稿では、船賃ではなく旅費総額だけを述べておられます。これは靴や洋服などの身支度、上陸時に必要な「見せ金」まで含めた金額です。『森』の方の記述は船賃だけですから、双方をそのまま比較する形では、読者の誤解を招くおそれがあるのではないでしょうか。船賃だけでしたら、円建てで50円~60円程度でした                          

                 ◇

二村一夫さんは、私が最初に拝見した『高野房太郎とその時代』はじめ多数の業績を収録した二村一夫著作集をネット上に載せておられる研究者であり、この文章を書くのにいろいろご教示を頂戴した。感謝したい。

| | コメント (0)

2009年2月18日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼればなし その三

Photo パリコンミューン100年の旅 
     
       
吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB


 エディット・ピアフ愛の賛歌-という映画(2007年
)を見た。

1915年にパリのベルヴィルで生まれ、1963年癌で倒れたシャンソン歌手で多岐な生涯を送ったが、フランス市民ばかりか世界・日本でも愛された歌い手である。その47年の生涯をこまかいエピソードをよくちりばめて140分あきさせない。NYでのリサイタルでマレーネ・ディートリヒ(1901-92)が近寄り、ひさしぶりにパリの空気が吸えた、貴女はフランスの心を歌ってくれたというシーンもあった。このピアフの墓は、彼女が生まれたパリの下町ベルヴィルのペールラシェーズの墓地にあり世界からの参詣者の献花の絶えることはない。

 パリのメーデー行進が立ち寄る場所のひとつにこのベルヴィルのペールラシェーズ墓地がある。それはなぜか?私たちは「ヨーロッパ革命史の旅」ということで1971年パリコンミューン百年を記念して小旅行をしたことがある。パリコンミューンとは何で、どうして72日間パリに存在し、後々の世界に多大な影響を残したのか。大仏次郎の『パリ燃ゆ』という作品は歴史家も及ばぬ筆致でこの歴史を生き生きと再現している。ナポレオンの甥にあたるルイ・ボナパルトはフランス第二共和制の大統領を経て、1851年クーデターに成功、国民投票で帝政を開き、1852年ナポレオン三世として君臨した。その後 パリ大改造、クリミア戦争アロー号戦争、インドシナへの出兵、イタリア統一戦争で勝利を占めたが、1861年のメキシコ出兵はうまく行かず、そのころから第二帝政は崩壊に向かった。

1870年エムス電報事件で挑発されたナポレオン三世はドイツに宣戦したが、北ドイツ連邦をひきいるプロイセンは万全の準備を整えており、一方フランス側は全く準備不足でフランス軍は惨敗し、セダンの戦いでナポレオン三世は10万の軍とともに捕虜となった。2月後の9月4日、第二帝政の終焉とナポレオン三世の廃位が宣言されるとともに国防のための新政府設立が決議された。プロイセンー北ドイツ連邦軍はパリへ進撃を続けた。1871年1月5日パリに砲撃開始、1月18日パリ砲撃が続くなか、プロイセン王はヴェルサイュ宮殿で統一ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世として即位し、1月28日休戦協定が署名された。降伏したティエールを首班とするヴェルサイユの臨時政府は兵士たちの武装解除を求めた。しかし、パリ包囲に対して抵抗し、多大の犠牲を払ったパリ市民は、アルザス・ロレーヌの割譲を含むプロイセンに対する降伏に怒って蜂起し、3月26日、革命政府パリコンミューンを樹立した。

パリ市民による選挙が行われ1871年3月28日コンミューン成立が宣言され、(以後同年5月20日の間)パリを統治することになった。その間、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止、政教分離など革新的な政策が打ち出され、暦も革命暦が用いられた。選ばれた議員には画家クールベもいる。いわばパリ市民は初めて自らの手で自由・民主の自主管理の自治体を創りだしたのである。マルセィユ、リヨン、サンテティエンヌ、トゥールーズ、ナルボンヌ、グルノーブル、リモージュなどの地方都市でも同様なコンミューンが結成されたが、いづれも短期間で鎮圧された。

1871年3月28日から5月29日までパリを治めたパリコンミューン政府がヴェルサイユに置かれたティエールの臨時政府による攻撃と北ドイツ連邦軍の封鎖により、血の一週間と呼ばれる戦闘で3万人に上るという多数の死者を出し瓦解、ペールラシェーズ墓地での白兵戦と殺戮を最後に5月28日パリの抵抗は鎮圧された。ここで捕らえられたコンミューン戦士は墓地の東南隅の石の壁の前に立たされて銃殺された。この壁が「連盟兵の壁」と名づけられ、毎年パリの労働者・市民が集まリ花で飾るのがならわしとなる。

1971年パリコンミュ-ン100年、私たち有志のパーティはペールラシェーズの墓地に詣で、「連盟兵の壁」に花を捧げた。この旅の参考書にした大仏次郎の『パリ燃ゆ』はこう述べている。

「・・・トローヌ、シャロンヌ地区の大部分が午前中に敵の手に渡った。ビュット・ショーモン、ペエル・ラシェーズ墓地の砲兵が弾がなくなるまで頑張り続けた。ペエル・ラシェーズは午後4時に敵の包囲に陥ちたが、午後6時まで敵の進出を喰止めた。十門の大砲と二百名の連盟兵が立てこもっている。大砲の一門は1851年12月のクウデタで活躍したモルニー公爵の墓の前に据えられた。銃剣やサーベルをふるった白兵戦は、エミール・スーヴェストル、シャルル・ノディエの墓やバルザックの墓の胸像の間で行われることになった。連盟兵はここでも規律がなく、状況判断を欠いていた。墓地を囲む厚い石の壁に銃眼を穿つ命令さえ出ていない。ヴェルサイユ軍は容易に接近することが出来たし、背後の市の城壁に大砲を据えて、墓地の内部を掘り返すことが出来た。

コンミューンの大砲は午後になると、もう弾薬を持ってない。六時になると、墓地の正門を砲撃で破砕し、墓石の陰に隠れたコンミューン兵に攻撃が加えられた。逃げ場はない。所構わず白兵戦を展開し、夕闇が迫った後にもこの絶望的な戦闘が続けられた。

そして最後まで闘って捕虜になった戦士たちは、墓地の東南隅の石の壁の前に立たせて順に銃殺された。・・虐殺はこの周辺、ベルヴィル、メニルモンタンの町並み、道路や屋内の庭でもおこなわれた。ヴェルサイユ軍に残された任務は、残存する小拠点の清掃であった。・・・・」

虐殺された市民兵・連盟兵たちは、例によって「暴徒」「アカの社会主義者たち」「叛徒」とされ、公式記録からは抹殺されたのはいうまでもない。

六十五歳で『パリ燃ゆ』を書き始めた大仏次郎は、あとがきにこう書いている。

「・・・机に向かって仕事する前に私はフランスに行きコンミューンの舞台だった街や広場をこつこつ歩きまわりました。今となってみるとその時々の思い出がなつかしいものになります。最初にぺエル・ラシェーズの墓地に行き、
・・・・・、また他の日にはメニルモンタンの町工場の多い地区を歩き、偶然に画家アルシンスキの細君にもらった一枚の古い絵葉書から最後まで残って抵抗したバリケェドの置かれた四つ辻を見つけて、深い感慨とともにその場所に腰をおろして、あたりを見回しでしばらく動かずにいたことなど、これからいつまでも私は忘れずにいるでしょう。・・・・」

私は古地図・写真を手にして私たちのパーティーを案内して、メニルモンタン・べルヴィルを歩き回り、ついに大仏次郎のいう四つ辻を探し当て、大仏次郎とおんなじ体験を味あうことができたのは幸せだった。そのときの写真もある。1971年のことである。(今この界隈の町並みは80年代の再開発でだいぶ模様が変わっているようである。ネットで確かめられるとよい。)

私たちの次の目標は、サンドニ美術館で開かれていたパリコンミューン展であった。サンドニという都市はパリの都心から北十キロと離れない郊外にある。当時いわゆる革新市政だった。このサンドニ美術館のことは大仏次郎の『パリ燃ゆ』の冒頭にでてくる。ここにはもともとルイズ・ミッシェルの画が二枚ある。女教師ルイズがコンミューン敗退で逮捕され引かれていく場面と監獄の壁の前で仲間のコンミューン戦士たちに何か説明するか教えている場面の二枚である。彼女は死刑にはならず太平洋のニューカレドニアのヌメアに流刑となり、コンミューンの思い出を書き残している。後のパリ市民はパリのメトロの駅名にルイズ・ミッシェルの名をつけている。これは日本のメトロの駅名に「菅野すが駅』や「幸徳秋水駅」があるようなものである。

1971年当時パリコンミューンは学校の教科書に載らず、当のパリでもドゴールなきあとのドゴール体制で、パリコンミューン展などどこでも計画されてはいなかった。革新市政のサンドニならではの企画であった。資料・写真入りの冊子も用意されていた。この展覧会は特に若い人にパリコンミューンとは何であったかを知らせるのに必要があるという説明も聞いた。

さてパリコンミューンみたいなことはときのフランスだけの出来ごとだろうか。世界史をふりかえれば、どこにも同様なことがおきでいることに気づく。明治の日本であの秩父事件秩父困民党蜂起がある。亡き戸井昌造がこの事件を追い続けた一連の労作がある。最近見て衝撃を受けた映画に『光州5・18』がある。1980年5月のいわゆる光州事件をドキュメント風にリアルに描いた問題作である。これを知れば、隣国韓国の血みどろの民主化運動が偲ばれる。光州広域市の公式HPを見よ。「光州民主化運動」として顕彰している記事を読め。まさに光州コンミューンが1980年5月に存在したのである。

今年2009年は キューバ革命50年 チェゲバラ生誕80年であり、「チェ28歳-チェ39歳」の連作映画が封切られているが、ゲバラは第3世界である中南米にパリコンミューンの夢を追って志いまだならずしてたおれた。が、いま2009年ベネズエラやボリビアなど中南米各地で ゲバラの夢は実現されつつあるという新しい世界史の潮流にそろそろ開眼しようではないか。           

2009.01.23
参考資料
雑誌「歴史地理教育」188号(1971、11月)

西洋道中膝栗毛-ヨーロッパ革命史と現代の旅 大江・山口・吉田・吉村

映画 エディット・ピアフ-愛の賛歌-(2007)   DVD

映画 光州5・18  (2007)          DVD

映画 華やかな休暇  (2007)          DVD

映画 懐かしの庭   (2007)          DVD

TVドラマ 第五共和国(2005)          DVD

大仏次郎 「パリ燃ゆ」(1-4)           朝日選書

戸井昌造  秩父事件を歩く(1-3)         新人物往来社

映画  チェ28歳 チェ39歳(2007)     

戸井十月  遥かなるゲバラの大地           新潮社

戸井十月  チェ・ゲバラの遥かなる旅         集英社

戸井十月  ゲバラ 最後の時             集英社

光州広域市HP 光州民主化運動            ネット   

韓国の民主主義 1,2 金正勲            ネットJANJAN

ルイズ・ミッシェル「パリ・コンミューン-女性革命家の手記-」上下 

天羽均・西川長夫訳 人文書院

大島博光 パリ・コンミューンの詩人たち        新日本新書

パリ・コンミューン写真展2006.11-12   パリ市歴史図書館
(ネット式世界の読み方)

秩父根民党の蜂起   
朝日百科・日本の歴史100自由民権・国権(1988)

秩父事件って、なに?上とともにネットにあるエディット・ピアフ/パリコンミューン/大仏次郎/光州事件/秩父事件 すべてWikipedia にある。
【引用HP】

大佛次郎研究会コガクな毎日大島博光記念館

その他、映画の公式サイト。

| | コメント (0)

2009年1月14日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼればなし その二 

Hesse_1927 わが敬愛する文人たち

         吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB

 

高校生時代、愛読していたヨーロッパの文人で敬愛の手紙を送りたくて出しそびれ心残りの文人が二人いる。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)とロマン・ロラン(1866-1944)の二人である。その代わりというかこのお二人と親しく文通交流を続けていた数少ない極東の文人、片山敏彦さんを新聞部・文芸部合同でおよびしてお話をうかがったことはある。

                                  

 ヘッセもロマン・ロランもともにその人生を危機から危機へと旅を続ける巡礼者のような文人・思想家であったといえよう。ヘルマン・ヘッセには、1940年に片山にも送り、敗戦直後片山が訳した『ヘッセ詩集』の巻頭序文に載せたMüssige Gedanken「閑(ひま)な思想」という詩がある。
      
やがていつかこれらはすべてなくなるのだ。

   愚かしく天才的なこんな数々の戦争も

 (中略)

   それらのものがなくなったとき山々は青空に燃え

   星々は夜毎に光るだろう。

   双子宮・カシオペア・大熊座

(中略)

   しかしそのとき世界歴史はもうすんでいる。

   血と痙攣とごまかしとの膨大な大河とともに

   ほら吹きの世界歴史は

   濁った塵芥の流れのように消え失せて

   世界歴史の数々の表情は消え

   その限りない貪欲も静まり人間が亡失される。

   (中略)

   おぞましいすべてのもの 美しいすべてのものの没落を

   静かに見まもった創造者は

   すっかり空になった地上を永らく見つめる。

(中略)

   思いに耽り創造主は そこばくの粘土を取って捏ねる。

   再び彼は 一人の人間を造るだろう。

   彼に祈る一人の小さな息子

   その笑いと仕草と七つの道具とに

   創造主は 楽しみを賭ける。

   その指は嬉しげに意のままに粘土を捏ねる。

   彼は喜びながら 形(かたち)を作る。
 一時世界を風靡したヒトラー主義ドイツの「レーベンスラウム」(生活圏)そして大和天皇民族の「大東亜共栄圏」の世界歴史は東部戦線の崩壊、ベルリンの瓦解と陥落、沖縄戦。東京はじめ諸都市の無差別絨毯爆撃、そしてヒロシマ、アジアで見れば南京の惨劇、マニラの市街戦によって崩壊した。かに見えたが・・・・いま戦勝国米国の驕り高ぶる好戦的世界支配、カジノ資本主義と世界どこにでも首を突っ込む米軍による一極世界支配の世界歴史が音を立てて瓦解しつつある。 

まさに「血と痙攣とごまかしとの膨大な大河とともにほら吹きの世界歴史は濁った塵芥の流れのように消えうせ」ようとしている。つまり野蛮化・地獄化し尽くした、いわゆる近現代世界史の終焉である。ヘッセの詩から実に68年目である。

                                    

 ヘッセとロマン・ロランとの交友は1915年、第一次世界大戦時に始まる。ベートーベンの第九から、すなわちシラーからとった『おお友よ、その調べにあらず』というアピールが新聞に掲載されるとメディアから総攻撃を受ける。ジュネーヴにいたロマン・ロランはヘッセの論調に感動したという手紙を送った。

                            
ロランからヘッセへ

「心を込めてあなたの手を握ります。・・・ご著書を呼んだときから、またわけても、あなたがこの嵐のなかに憎しみの雲を吹き払う言葉、解放されたベートーベンの言葉(おお友よ、その調べをやめよ)を引用されているのを耳にしたときからです。」

 ロランの手紙を受け取ったヘッセはこう書いている。

「彼は常にドイツ精神とフランス精神の最高の仲介者の一人と認められており、僕が折に触れ精神的な問題で意志の疎通や協調を得る努力をしていることに関心を抱いていたのです。僕たちヨーロッパ人にはまだたくさんなすべきことや学ぶべきことがあること、いま戦っている国々が精神的な分野で大いに協調しなければ後々決してうまくいかないだろう・・・・」 

 ロランのいう『ヨーロッパ精神の連合』に彼は賛成している。 

                                              
ヘッセからロランへ

「この前のお手紙で『あなたと私が何かの力に強制されて、お互いに憎み合うなどということが一体ありうるでしょうか』と書いていらっしゃいましたね。いいえ、幸いにもそんなことはあり得ません。死を打ち負かす愛は、今はびこっている恐怖よりももっと強く、もっと長く持続するだろうと思います。再びまた一つのヨーロッパが、生まれるでしょうし、再びまた人類一体の感情が起こってくるでしょう。ロランさん、あなたこそは、私の心の中で、また多くの心の中でこの気持を強めてくれるお一人なのです。」  

                                              
ヘッセからシュテファン・ツヴァイクに

「・・・ロランがこの夏(1915年)ここ訪ねてくれ、本当に心楽しく素晴らしい思いをしました。考えていることをうまくフランス語で表現できないので対話は途切れがちでしたが、私たちはお互いすぐに理解しあえました。ロランの手紙を読むと、彼が私を好いてくれ、私の特質をはっきり感じてくれていることが読み取れるのです。彼はたいへん純粋な心を持った堂々たる人物です。その彼が好意を持っていてくれるのが嬉しく、慰めになります。」

                                              
ヘッセからロランへ

「親愛なるロランさま ご好意あるご挨拶を心から喜びました。私はあれからずっと病気がちで孤独に沈んでいます。生きることは困難になり苦い味がします。できる限り時事問題から離れて、時代を超越したものに向かっています。それだけに文芸がいっそう貴重なものになってきました。政治問題に愛をもって立ち向かおうとする試みは失敗でした。『ヨーロッパ』も私には理想ではありません。・・・ヨーロッパの指揮の下で人間が互いに殺し合っている限り、人間をどのように区分けすることも疑わしく思えるのです。私はヨーロッパを信じません。信じるのはただ人間性だけ、すべての民族が関与している地上の魂の王国だけです。それを最も気高く体現してくれているのはアジア人だけです。・・・」

                                     
1923年12月26日ヘルマン・ヘッからセロマン・ロランに、
「ベルン1917年8月4日 ロマン・ロランさま、・・・贈り物のなかには確かに『ジャン・クリストフ』全10巻も確かにいただきました。・・・またガンディーについてのご著書をご恵贈いただきまして、ほんとうにありがとうございました。私と同じくインドという道を歩まれたことを知り、たいへんうれしく存じます。『ガンディー主義』についてのご記述は当然のことながらヨーロッパ的で、定義の明晰さは私がこれまで読んだ類書をはるかにしのいでおります。そして私がもっともうれしく思いましたことは、あのはるか遠い世界、しかし私にとっては物心ついたときから身近な世界を把握なさるときに、明晰さの背後に知性と厳密さが、愛情と心の暖かさが感じられることです。」
                  
          
ロランからヘッセへ 
1936年2月21日ヴィルヌーヴ

親しい友私の七十歳の誕生祝いに、私に手紙を書こうと思われたことに、どれだけ私は感動したことでしょう。あなたは(当時ヘッセは59歳)私が愛と尊敬を抱いている芸術と思想のきわめて稀な兄弟の一人です。そして私はあなたの友情をうれしく思います。私たち、あなたと私は、二人の隠者です。しかし私の行者の庵に私は世界のあらゆる突風を吹き込ませました。そして私は光の中にあるあなたの静けさがしばしば羨ましくなります。私は私の生涯の夢を生きたことはなく、その運命を生きてきました。そして私の生の運命は、私が休息しようと思っていたどの宿駅でも、新しい戦闘を私に命じました。決して休息はありません。--しかし私はついには休息に到達するでしょう。私はそれを購いました。そうした幸福なとき、その時には眠るだけでよい、永久に眠るだけでよいときに、私はミュッセのように私の眠りの上に涙する柳のことではなく、陽の照る一本のオリーヴの木を夢みます。私はつねに待ちつづけていました。一生、私の二十歳のころのイタリアへの郷愁を。わが敬愛する友人愛情をこめてあなたの手を握ります。あなたの年老いた友」
 1939年62歳、ヘッセの作品はナチス・ドイツで「望ましからぬ文学」とされ紙の配給が停止され、単行本の著作集はスイスの出版社から出版された。ヘッセと親密な関係にあったペーター・ズーアカンプは1944年ゲシュタポに逮捕されザクセン州マントハウゼン強制収容所に拘留された。

                                    

 1945年5月2回目の東京ナパーム弾無差別空襲で私の家は焼失した。学生時代に集めたヘルマン・ヘッセも、ロマン・ロランも、他の和洋さまざまな全集・文庫類とともに灰燼に帰した。私は軍隊で不在、祖母・母・次兄夫婦は辛うじて生き延びた。私は戦後復員し裸一環で戦後を生きたが、もう本を集める気力は失った。しかし、そのうちになんとなく戦後購った本の山に取り囲まれた。しかし、2007年11月、晩年最後の移転で殆どの本の山を思い切って整理し、身軽になった。今はインターネットと街の図書館、武蔵野中央図書館がわたしの本棚である。しかし、ヘルマン・ヘッセもロマン・ロランもちゃんとした全集が整っており、今の読者は幸いである。ともに日本友の会があり、特にロマン・ロランの場合は京都に財団法人ロマン・ロラン研究所があり、活動をつづけているようである。

                                    

1992年に亡くなられた新村猛さん(1905-1992)は1951年、私の失業時代に名古屋大学に来ないかと誘ってくださった恩人である。あの時は家人の年老いた父が東京を離れないでくれと、夜分懇願しに訪れた。それで新村先生のお誘いを残念ながらお断りした。今度ロマン・ロランのことを書く際に新村猛著作集第一巻「ロマン・ロラン」で勉強し直し、新村先生の高貴な知性と静かな情熱をしみじみ感じた。お弟子さんの今江祥智の長編で、先生をモデルにした『雲を笑いとばして』(理論社、1991年)という作品があることを初めて知った。ぜひ読んでみたい。
                  ★
 私は旧日本評論社をやめた失業時代、当時高校社会科にまだあった『時事問題』という新科目の教科書(宮原誠一編、実教出版)の「平和」という単元の原稿の一部を松島栄一さんから頼まれたことがある。それに第一インター、第二インターにふれ、「第一次大戦の開始以来、反戦・平和を説き続けた数少ない文学者として、フランスにアンリ・バルビュスやロマン・ロランがいた。かれらは、社会や人生を観察して、戦争が人間の血を流す不合理なものであることを知り、かつ戦争の直接の体験は、ますますその気持ちを強めたから、それぞれの作品を通じて、人々に平和を守ることを訴えたのである。ことにロマン・ロランは、ロシアのトルストイから「もっとも人間らしい仕事は人々の心の中に人間性(ヒューマニティ)をよびさますことだ」とはげまされて、『ジャン・クリストフ』を書いて、フランス・ドイツの友愛を文学にした。」「そのうえ今日は日本は平和な文化国家として、国際的にも、政治的にも自立しなければならないときである。講和条約の内容はこのためにも、もっと十分なものにしなければならないわけである。だからこのように考えると、平和の問題は、今日のわれわれの社会のいちばん中心となる問題である。すべての生活上。社会上の問題はこの平和の問題に集中しているといえる。平和のためにたたかい続けてきていたロマン・ロランはいっている。

 「平和はすべての人々の共通の財産である。平和に仕える者がいくら多くても、多すぎるということはない。われわれは平和の周囲にあらゆる旗を招き集める。平和は党派の問題ではない。平和は欠くことのできない食べ物であり、パンであり、空気である。それは生命であり、なによりもまず生命を、である。」と。(1952年文部省検定済)宮原誠一編 実教出版刊、下巻189頁、214頁)
 2009年初頭にふりかえれば、このとき「平和」が「自立」を伴わないとき、どうなるのか、という認識が欠けていた。そういう苦々しい反省が強い。今日の「平和」は憲法九条の危機にみるように「安保」と「自衛隊」にはさまれて存在している。自衛隊が戦後どのように生まれ、いまどのようなアブナイものに育っているだろうか。“安保ボケきわまれり“という国民状況といえないだろうか。好戦的な超大国への従属関係の下に、今日の「平和」というものが辛うじて存在していることをいちばんよく沖縄の人々は感じているだろう。野放図な「対テロ世界戦争」そして「集団自衛権」という隠れ蓑の下での「海外派兵」の当然化、われわれの今日の「平和」はこんなに頼りないものに堕してしまっているのではないか。

参考文献

ヘルマン・ヘッセ、ロマンロラン往復書簡』片山敏彦・清水茂訳 みすず書房1959年    

ヘッセからの手紙―渾沌を生き抜くために』ヘルマン・ヘッセ研究会編訳 毎日新聞社、1995年

評伝へルマン・ヘッセ―危機の巡礼者』(上・下)ラルフ・フリードマン、藤川芳朗訳、草思社、2004年

ヘッセ詩集片山敏彦訳 みすず書房 1998年

ヘルマン・ヘッセ全集』全16日本ヘルマン・ヘッセ友の会/研究会編・訳臨川書店2005-7年

色彩の魔術-ヘッセ画文集』(同時代ライブラリー)フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳 岩波書店、1992年

ロマン・ロラン全集』(全42巻・別巻1)第七部・書簡、特に36~40巻みすず書房、1979年

ロマン・ロラン研究所(1971年創立)『ユニテ』全巻(No1No35)

新村猛著作集 第1巻ロマン・ロラン』、三一書房、1993年

  
毎日更新ブナ林便り 編者

http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年12月17日 (水曜日)

ある編集者の歴史 こぼればなし その一

Photo 00

わが愛する画家たち


    吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB


 民衆絵画への開眼は16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルから始まる。あの軍国主義下の暗い時代、旧制高校新聞部員の、私たちの青春の血を沸かせてくれたのは
 赤版岩波新書、羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』だった。

「ミケルアンヂエロは、いま、生きている。うたがうひとは、"ダヴィデ"を見よ。」そして羽仁そっくりの筆運びで民衆の画家ネーデルランドのブリューゲルを教えてくれたのが みづえ』のピーテル・ブリューゲル特輯(434、1941年1月号)を編んでくれた久保貞次郎と彼の弟小此木真三郎だった。以上の二冊は常に必携の愛読書となる。

編集者の先輩、小宮山量平は岩波『図書』の岩波新書創刊70年記念号にこう書いている。「今年九十二歳ともなったぼくは、ほんの中学生時代に新書の創刊とめぐりあっている。・・・中でも羽仁五郎の労作はわが青春のときめきを刻印づけた生涯の栄養素となって、後日社業のマークもダビデとした。」

そのときのみずえ特集号は見あたらないが、戦後1968年夏の別冊みづえ(No.53)『ブリューゲル』は手元にある。これは、ブリューゲルの本格的研究者・森洋子の論文を巻頭に載せた戦後版である。森洋子の研究は実を結び、未来社から『ブリューゲル探訪―民衆文化のエネルギー』が出ている。

私が初めて愛するブリューゲルを拝見できたのは、第15回国際歴史学会議ブカレストに高橋磌一さんの代理として参加できたとき、最初にベルギーのブリュッセルに立ち寄ったときである。『ブリューゲル全作品』1988年、中央公論社彼の絵の感じ方については、有名な野間宏の『暗い絵』問題がある。(ネットでも当たられるとよい。)

このときも偶然の幸せであるが、あと二人の特異な画家との出会いも偶然である。二人の伝記を扱ったグルジア映画そしてハンガリア映画との出会いがきっかけであった。1978年岩波ホールでグルジア映画『ピロスマニ』を見た。変った民衆画家の目立たない生涯を淡々と描いた秀逸の作品であった。一日の糧と一杯のワインのために居酒屋の看板やレストランの壁を飾る絵を描いた放浪の画家で、ロシア辺境のグルジアの無名の"素朴派"絵描きであった。

この絵がすばらしい。一見しただけで、グルジアを訪ねグルジアの人々に会いたくなるような、親しみをもった絵である。1979年第四回日ソ歴史学シンポジウムがモスクワであったとき、会終了後念願かなって遠く南方グルジアを訪問することができた。そしてトビリシでこのピロスマニの作品を堪能することができた。のちに彼の画集も手に入った。

NIKO PIROSMANI(1862-1918)

AURORA-KUNSTVERLAG,LENINGRAD, 1983 である。

のちに、日本でもピロスマニ展(1986年、西武美術館)が開かれ、

画集も出版されている。文遊社2008.

加藤登紀子の「百万本のバラ」は、ニコ・ピロスマニがモデルとか。A.Voznesenskij作詞、R.Pauls作曲「百万本のバラ→ネット・グルジアに思いを寄せて+プンとプニイの物語」もう一人の漂泊の画家を知ったのも、アテネフランセで開かれたハンガリア映画週間だったかハンガリア映画『チョントヴァリ』という作品を見たのがきっかけである。ハンガリアの画家で旧ユーゴスラヴィアの名勝や中近東の風物・文化を画材にしたとても面白い、いくらか浮世絵に似たタッチの作品を残している。地味だがとても味のある小品で印象に残るものだった。残念ながら彼の作品が残るペーチのCSONTVARY MUZEUMを訪ねることはもう叶わぬ夢だが、まあネット上でペーチのチョントヴァリ美術館を見学することで満足している。→"まみさんの旅行ブログ"画集はブダペストで購入した。彼の生きていた地域はオスマントルコの文化的影が色濃く刻まれている地域らしく、彼の中近東に対する愛情は深いものがあり、とてもよい。

CSONTVARY:CORVINA,BUDAPEST 1974 

最近、劇団ひとりが熱演した棟方志功の物語をTVで見た。ネットでも棟方志功を渉猟してみたが、画風は違うがピロスマニやチョントヴァリのことを思い出した。あのドラマに出てくる柳宗悦もよかったが、民芸館は中高時代住んでいた地域にあってなつかしかった。ちなみに、グルジアのワインもうまいが、そのチーズパンはふんわりして厚みがあり、とてもおいしかった。いまでもその美味を思い出す。

           2008.11.11 よしだ ごろう

《参考》

ピーテル・ブリューゲル 1525-1530 生年諸説あり

            没年 1569

ニコ・ピロスマニ    1862-1918

チョントヴァーリ    1853-1919 

棟方 志功       1903-1975

柳  宗悦       1889-1961

(次回)
ある編集者の歴史ーこぼればなし その二

わが敬愛する文人たち-ヘルマン・ヘッセとロマン・ロラン/片山敏彦と新村猛

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm
参照資料:
亀井秀雄の発言HP』『なかざわともえHP』『小宮山量平の編集室
中央公論社』『文遊社

| | コメント (0)

2008年11月19日 (水曜日)

ある編集者の歴史 結び (下)

                                     Photo_2吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB

 


  岩波『図書』の2008年10月号に鶴見俊輔が「一月一話」で「歴史の影」という短文を書いている。その一節にこう述べている。

・・・八月十五日の天皇の放送をひとりで聞いた。その放送で「残虐な新型爆弾」という言葉が耳に入った。私にとっては、五歳のときに号外で知った、張作霖の残虐な爆殺以来の日本人の同時代史がある。天皇の説く「残虐」が心におちたのは、何ヶ月、何年もたって原爆投下が人間の歴史を変えるほどのことだったと知ることができてからである。それまで、米国政府筋からも、米国に追随する日本政府筋からも、原爆の姿はあきらかにされなかった。

 二〇〇八年三月十四日、日本の最高裁判所は戦中の横浜事件の事実無根という判決を認めることを拒絶した。共産党再建の計画という事実無根の犯罪をつくって、拷問と獄死をもたらした戦中の裁判は、不問に付されたまま戦後六十四年が過ぎた。戦時の判決の不当を、私たち日本人は背負い続けている。この根もとにある罪は、戦後日本の歴史の変わらない特色である。 

鶴見のいう「この根もとにある罪」という指摘は、鋭くして重い。いまだに私たちの世界感覚・世界史感覚が自主形成されていないこともこの壁にぶつかっているからである。日本エディタースクール出版部から美作太郎・藤田親昌・渡辺潔共著の『横浜事件』という貴重な証言が出ている。実は私が軍隊から解放されてはじめて青春の職場についた旧日本評論社の編集局長が美作であり、メディアの新機軸をいろいろと切り開いていた雑誌『日本評論』の編集長が渡辺だった。その他、横浜事件の受難者とかかわる人たちが何人もおり、いわば戦後ジャーナリストの梁山泊の観を呈していたのが当時の日本評論社であり、まさに「私の大学」がそこにあった。その「わたしの大学」も50年代に入るや否やつぶされてしまった。私はそのときそのことの意味をしかと知らなかったのだ。いわば私の高校世界史教師という第二の職場は、ある意味で「転向」であり、ある意味で「敗退」であり、ある意味で「逃避」でもあったのである。しかし、あの日本評論社で学んだ「エディター」魂は、多様な可能性を秘めた青年男女とのふれあい、まなびあいによって新たに生き返った。私の前には、枠や公式、既製の知識や解釈をひっくりかえしていかねばならない星雲状態の未知の『世界史学』という学習・研究・教育目標が開けていた。自由闊達な新制高校の雰囲気、多士済々の同僚がいくらもいた職場、富士の見える高台、そして活気と刺激にあふれた歴史教育者協議会、日本には珍しい自由開放の学術サロンだった吉岡力さんの歴史教育研究所という学習・研究・討論の場、上原専禄先生はじめ『日本国民の世界史』を編んだ大先輩である六人の世界史学者(野原四郎、江口朴郎、西嶋定生、太田秀通、久坂三郎)の薫陶・・・
 すべて非常に恵まれた環境のなかで世界史教師としての自己形成がはじまった。それは、今日も続けられている、あたらしい『世界史学への道』を踏み出すことであった。私が勤めた高校でのわかものたちとのふれあい、印象に残ることを思い起こせばきりはない。たとえば私はここへフォークダンスをもちこみ、しばらく昼休み屋上で
FDのコーラーをつとめ、若者の活気にふれた。これは文化祭のあとの恒例のキャンプファイアーでの全校生徒の丸い輪に育ったものだ。私のわがままな「世界史論議」をうけいれてくれた歴史教育者協議会高校部会・世界史部会・世界部会、四回にわたる日韓中越の東アジア歴史教育シンポジウムを開いた比較史比較歴史教育研究会のみなさまの学恩も忘れられない。話は変わり、21世紀にはいってから独習で身につけたパソコンで新しい仕事が生まれた。マイノリティそして中央ではなく辺境からの視点でこの乱世世界史の日々を編んで日々インターネットで発信していくという作業である。
  これは私の辿りついたライフワークである。かつて横浜事件の心を受け継いだ旧日本評論社編集局で学んだエディター魂はこういう形で実を結んだといえようか。とくに『漫画は剣より愉し』というページは、第三世界としてのアラブ。中東世界の政治漫画を毎回とりあげている。私たちが激動する世界のなかでややもすれば孤立・自閉していきそうな風潮に抵抗して、少しでも第三世界の人々の心と思いにふれられたら、というエディター魂からである。2008年10月2日早朝                    
  
参照:横浜事件-若い市民のための新パンセ】(高新連HP

 

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

毎日更新ブナ林便りの巻頭言下記のとおり更新しました。
(2008年10月)開始いま野蛮化・地獄化しつくした「近(現)代世界史」の崩壊を私たちは目の当たりにしています。この数百年に一度しかない眼前に繰り広げられる大破局そして大転換をしかと記録に刻んでいきたいと思います。激変は日々ではなく時々刻々進んでいます。更新は刻々行わねばなりません。愛読者の皆さまこの世界の地鳴りにお互いに耳を澄ませていきましょう。

| | コメント (0)

2008年10月15日 (水曜日)

ある編集者の歴史 むすび (上)

Y2 Y3      

        吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB

          



 1952年、社会科世界史の高校教師になったとき、私は次のような意気込みだったと思う。

1.自分に巣くう植民地保有者根性・単一民族根性・権威べったり根性、総じて帝国意識みたいなものをどうにかして克服していく。

2.西洋史中心・西洋近代のモデル化の「世界史」。いわば西洋主義・近代主義からの脱却 ひっくりかえしを試みていく。

3.自己-他者・現在 には関係ないという「世界史」、のちの高校生の「三無主義」に風穴を開ける。

4.官許・検定済み・公認の「世界史」、受験「世界史」、年号など丸暗記「世界史」 に抵抗していく。

5.一方、公式主義・法則主義「世界史」を懐疑しそれに抵抗する

6.できるだけVisualに、生身の人間を描きたい。

以上たいした意気込みだったが、とにもかくにも、そういう姿勢、そういう考え、だったのだ。それから29年間、都立広尾高校の生徒諸君は、そういうわがままな世界史教師のひきまわしに悩まされてきたことだろう。

さて、高校世界史の教師をやめて二十年以上たった2005年の元旦、私は次のような振り返りの文章を「ブナ林便り」のために書いた。

04年から05年にかけて雑感 酉年にちなんで

2005年は酉の年で私の年だ。私は1921年酉年の生まれだ。

十二年ごとに来る酉年の自分を、ちょっと、振り返ってみた。すると偶然か必然か、その酉年かその前後が、私の世界史学習の節目に当たっていることに気付いた。

まず、生まれた年の次の酉年1933年、私は旧制の中学生になり、それから4年間の中学生生活を読書少年・音楽少年・映画少年として旧制高校三年間にかけて十分愉しみ、「大正リベラリズム」の影を背負ったインテリの卵である自分をつくった。

 次の酉年は1945年。近代日本はじめての大敗戦、明治・大正・昭和の日本帝国崩壊の年だ。私は昭和20年で終えさせるべきだった、20年で日本国民が終わらせられなかったのがいわば運のつきだったと感じてきた。

 近代化・西欧化の優等生だった帝国の子たちはここでいったん滅びた。生き残ったものはまあいわば神様のいたずらで生き延びられたにすぎない。この世界史的な日本帝国滅亡の体験は活かされたか。滅びるべきものは徹底的に滅びなければいけなかった。しかし、勝利国の狡猾な戦後世界政策から日本帝国の<滅び>は他律的・外圧的なものに収斂されていき、貴重な<滅び>の歴史と体験ははなはだ中途半端なものに終わらされ、帝国の基本・残渣そして帝国の亡霊は生き続け再生・再建された。

 そして、今度はきわめて冷酷非情な構造で、米世界帝国の浮沈空母という枠づきで、私たちはきわめて<属国的な>ゆがみを心身ともに刻印され、またしても<現代化の優等生>として太平洋・アジアに君臨する。徹底した<滅び>はいわば宿題として昭和を生き抜いてきた国民に重くのしかかっている。

 さて次の酉年1957年は自分にとってどういう年だったか。その前年1956年、「世界史研究および世界史教育の問題点」という報告、1957年には上原提案を受けて「歴史意識の自立を求めてー世界史・日本史の統一的把握を考えるにいたるまで」、1958年には「現代にふさわしい歴史認識」を報告している。

 それから12年たった1969年という酉年。ちょうど12年前の総括的問題提起をやや前進させた「世界史の可能性」という問題提起。翌1970年には最初の論集『歴史認識と世界史の論理』『歴史認識と世界史教育』が刊行される。

 1969年「私の卒業論文」に述懐している状況は2005年を迎えたいまもそれほど変化しているとは思えない。これが私の原点だとも思う。

「とにかく、現在は例えようもなく暗い。世界史の可能性は絶望に近い。      世界史を成立させようとする自覚や試行を阻害する諸条件はすべて出揃い確立されてしまった。世界史二十周年の鐘はこの二十年間がゼロであり、むしろ停滞と腐敗の長城を固めるのに役立つという弔鐘である。1969.1」

 次の酉年1981年、私は29年間の「社会科世界史」の教師を切り上げ、大学の非常勤講師としての『歴史・世界史』を除いていわゆる<現場>を卒業した。この直前の70年代半ばから、パレスチナ-アラブ―中東-イスラムへの学習関心が高まり、中東重要言語アラビア語・ペルシァ語・トルコ語の学習からパレスチナ・シンポジウムの実践、モスクワでの<戦後日本の世界史の方法論-上原専禄をめぐり->報告(1979)、日米歴史学会議(1983)での<日本での西洋史教育>報告とマクニールとの若干のやりとりなどに始まる国際交流への参加、「小さな学術コンミューン」としての「比較史・比較歴史教育研究会」(1982以来)の活動が始まる。

 20世紀最後の酉年になった1993年。この93年を軸に90年代はわたしの世界史の方法というか<物の見方・考え方>の枠組みがほぼ形をなした時期だと思う。1990年に『自立と共生の世界史学』(青木書店)をまとめ、大学生と学ぶ世界史学習では 最後に残ったS大学生と「<第三世界を自分の中に創る>という提案を考える」という学習を試み、1991年ソウル大学での韓日歴史教育セミナーの発題講演では「21世紀を臨む歴史教育における自国史と世界史―学と知転換の場としての世界史学―」を報告した、第一世界・第二世界の第三世界化、21世紀の中心課題は第三世界問題、日本国民の課題としては内なる<日本・日本人・日本史イデオロギー>を徹底的に解体し、日本・地域・自他の中に第三世界を確かめつつ、自分自身の中に第三世界を自覚的に創っていく、したがって学と知ともに第三世界問題に対応していくのが課題だ、という問題意識であった。1993年にはあらためて「世界史教育45年と世界史学」という問題提起を整理報告している。

 最近 二谷貞夫さんが『歴史地理教育』とその月報で私の世界史論に触れ、当該誌500号に投稿した「いま、なぜ、世界認識が問われるのか」を再評価している。そこでは、脱第一世界(第二世界)、脱「単位性・体系性・境界性」→差異性(上原はこれを「個性」ともよび、重要視した)・異質性・関係性・無境界性で多様・多種・多彩・多元・多層という特性をもつ第三世界的なそして関係内・世界内の自己を発見し創造形成していく。そういう作業を行う場と方法としての世界史認識(世界史学的方法)を試行し創造していく、という考え方であった。

 1993年中国懐柔県での歴史教学研究会年会では「近代化は何時・どこで誰によって始められ、誰によって横取りされ、変質したか」という問題提起を試みた。歴教協編『世界史とは何か』(『あたらしい歴史教育』第1巻)に「産業革命・市民革命世界史」を投稿、野蛮な軍事的・「十字軍的」な欧米日「近代文明」とそういう「近代化」を普遍史として、それによる<グローバリゼーション>を人類史の当為・必然とする「進歩発展史観」のひっくりかえしを試みている。また、1995年の承徳での歴史教学研究会年会では「東アジアから見た十三世紀世界史をどう伝えるか」を問題提起した。

 <未開・野蛮・文明>という進歩発展の普遍史をひっくりかえし、<未開・文明・野蛮>という経過で、いわゆる<大航海>と<地球の一体化>以来、世界史の野蛮化/地獄化が第三世界から見れば進行しており、とくに20世紀の第二次世界大戦とヒロシマ・ナガサキ(それに凄惨な沖縄戦、全国非武装都市の非戦闘市民に対する徹底的な絨毯爆撃)さらにアフガン・イラクの侵略、イスラエルの膨張とパレスチナ占領以降世界史の野蛮化・地獄化(それに引きかえ臆病な世界の沈黙という事態)は日々、明々白々となっている。

 だが日本国民の多くは、それを知らない、感じ考えようとはしていない。学校もメディアも そういう世界史の野蛮化・地獄化に眼を開こうとはしていない。なぜなのか。どこに壁があるのか、問題があるのか。

 1970年代から1990年代にかけていくつかの大学、とりわけ中央大学・成蹊大学で、「世界史の方法」いわば「世界史というものの見方・考え方」を目指して既存の歴史像・世界史像を見直す講義をまとめて、1995年御茶の水書房から『世界史学講義上下』として出してもらった。

 2001年3月、インターネット上に「ホームページ ブナ林便り」を立ち上げ、その中心に毎日更新の<ブナ林便り>をすえ、この乱世世界史の日々の瞥見を始めてみて満4年になろうとしている。

 そしていま2005年、私にとって8回目の酉年である。物の見方・考え方の学習と修練、世界史的な見方の試行錯誤の連続、やむことのない<ひっくりかえし>(物の見方・考え方の)は、ある形・枠組みに行き着いたものの先が見えたわけではない。しかし、次の9回目の酉年まで生きておられるかどうかはしごくあやしい。
   
(2004.12.31, 20:44)
                  
むすび(下)につづく     

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

     

| | コメント (0)

2008年9月17日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その11

Photo 世界史の絵本
         吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB

世界史なんて 日本史ではない外国史だろう?

世界史なんて 暗記物さ 嫌いさ!

世界史なんて 俺には関係ないさ

そもそも 歴史なんて 古臭い 今とは関係ないよ。

そう思っている人は殆どじゃなかろうか?

まさに 官許世界史 受験世界史とはそんなものだろう。そんな常識に風穴を空ける すばらしい絵本がある。
「(いよーく)にがみえたぞ1492年・コロンブスの新大陸発見」と暗記でしかないコロンブスの旅が実在した大航海として迫真性もて浮かび上がる。優れた世界史の教科書だ。その時代の世界観、大 航海の細部、どんな船、食料はなに、何人乗組員がいた、そして大事なことは彼らを迎えた現地人の反応や暮らしが 実に生き生きと 興味深く語り起こされあるときは図鑑ふうに あるときはパノラマで描き出される。カリブ海に到達したサンタマリア号を出迎えるジンベエザメまでも。70年代の末。評論社からこの絵本を見せられた時、これこそ待望した世界史の教科書=絵本だと思った。早速、ピエロ=ベントゥーラ画、ジャン=パオロ=チェゼラーニ文による『マルコ・ポーロの冒険』『コロンブスの航海』『マゼランの航海』『クックの航海』『リビングストーンの探検』『北極探検』とイタリアの大型絵本「探検と航海シリーズ」六冊の翻訳・解説を引き受けた。

それから約二年間の作業は楽しい祝祭を準備する充実感と期待をたっぷり味あうことができた。ミラノ生まれのベントゥーラの軽妙な画筆、ジェノヴァ生まれのチェゼラーニの簡潔的確な文章。ミラノのモンダドーリ社のしっかりした大型造本すべてがまるで自分のなじみの絵本のように思えた。大航海・大冒険の主人公をヒーロー扱いせずあくまで時代と社会が生んだ群像のひとりとしか描かない心憎い気配り。片や行き逢う原住民-先住民、非白人である民族の群像が、固有の価値をもつ人間として、個性ある民族として、白人の群像と対等に同じ画面に描かれる。文章自体、そういう立場で白人側の野心や乱暴、問題が率直に指摘される。面白かったのは『コロンブス』の米国版(注)ではそういう箇所を見事にカットし、米国の子供には隠していることだった。ことを、白人中心に描くのではなく、白人と非白人の遭遇、二つのそれぞれ個性をもつ異なる文明の出会いとして、歴史を客観的にも主体的にも描きなおそうという姿勢が画家・文人ともに一貫している。

コロンブスたちとインディオ。ポーロー家と中東・モンゴル・中国の諸民族、マゼランたちと太平洋・フィリピンの人たち、クックらとポリネシア・アボリジ二・マオリ、リビングストーンとアフリカ諸民族。北極探検家とイヌイット・・・・。白人が出会った世界の民族を、植生・風土・生物、いわゆる先住民の歴史と文化を視野に取り込み、侵略者である白人に対するもひとつの平和な主人公として位置づけている。

そこで、学問でいえば、自然・人文にわたる地理学・民族学・神話学・博物学、文化人類学、科学技術史・社会経済史・文化史等々の知識が動員され、歴史的瞬間の一こま一こまに生かされる。今で言えば「世界遺産の旅」「地球発見」などで楽しめる、大阪千里の民族学博物館で見られるような仮面をかぶる民族の踊り、カラベラ船の構造や乗組員の編成、インディオの生活や仕事など、コンパクトに説明されていく、まさに生きた世界史の基礎的知識の図鑑である。ベントゥーラの絵にもチェゼラーニの文章にも歴史書にありがちな無意味な瑣末主義はない。瑣末主義と裏腹の生硬で木偶の坊の人物像もない。

ハンの前に威儀を正した高官・兵士居並ぶ壮麗な宮殿の城壁に沿い子猫が歩く。コカチン姫を送る大型ジャンクのそばを飛び立つ鳥がつかんだ魚から水滴がしたたる。 自然も人間も生き生きした過去の世界が俯瞰撮影で描かれ、わたしたち大人も子供も世界史の中へ、未知の世界へ、自ずと引き込まれていく.。何人も登場する場面でも一人一人がどれぞれの表情と動きを持って描き分けられ、街や野山や建物や船や人や馬やその他が生きとし生けるすべてのものが、驚くほどリアルに細かく、そしてユーモラスな線と淡い色彩で描かれている。ただの絵本というより、すぐれた歴史書、世界史教科書といえよう。私も、先住民アイヌとの付き合いと助けで北方アジアを探査した間宮林蔵・最上徳内を主題に、このような世界史の絵本を何時の日か創ってみたいものだと思った。

イタリア人の文人と画家は、この世界史の絵本でマルコ・ポーロらの東方探訪による東の諸国諸民族諸文化との新たなる出会いを描き。コロンブスら以後にヨーロッパ人キリスト教勢力による暴力と 略奪の世界史が始まる歴史を子供に率直に語りかけた。いま、この絵本が無視しなかった世界の原住民=先住民が五世紀以上もの奴隷と屈従の歴史をひっくり返して、欧米勢力の世界制覇=いわゆる近代化とグローバリゼーションの世界史を創り直しつつある。{ノー コロンブス・デー}である。エボ・モラエス、ネルソン・マンデラの時代がいまようやく訪れたのである。コロンブスらの大航海・大発見の時代の始まりは、同時に世界中の「発見」=「征服」された諸先住民の抵抗の歴史の始まりであった。

21世紀も08年に達した今日、たとえばトルコの大統領アブドラ・ギュルは米国ーグルジア政権の惨敗を見て「米国はもはや単独で世界の政治体制を維持することができなくなっている。米国は(ロシアや中国など)他の諸大国と覇権を共有せねばならなくなった。新しい、多極的な世界体制が出現しつつある」と言っている。

いまや<西高東低、南後北先、近代化万歳、欧米絶対のグローバリゼーション当然>というような官許公認・受験用のいわゆる「世界史」は、この戦国乱世の世界の動きの中で「ひっくりかえし」「裏返し」されつつある。まさに戦国乱世の世界史が進行している。私たちはその乱世世界史の激動にややもすれば取り残され、その激動に目をつぶり、どっちかといえば自閉症に陥りつつあるのではなかろうか。 このイタリアから手渡された六冊の世界史の絵本は、私たちの子供たちに 生き生きした世界の激動期の一こま一こまを教えてくれ、未来の目覚めた市民たちを生み出してくれるかもしれない。(2008年08月末)

参考資料
国立民族学博物館/kid'sみんぱく みんぱくワークシート
同上/絵本の中に本物を見よう
         朝鮮半島
         アイヌ
         中央・北アジア・モンゴル
         オセアニア
         中国地域の文化
アフリカを知るための児童書おすすめリスト
国際子ども図書館(上野) 国際児童文学館(大阪) 

アートン新社-アジア・アフリカのすてきな絵本を子どもたへ 
沖縄のわらべうた 絵本(儀間比呂志)      
北方史を描く愉しさ その二(ナナイの絵本〕 吉田悟郎

:(米国版)”Christopher Columbus

”PIERO VENTURABased  on the textby Gian Paolo CeseraniRANDOM HOUSE NEW YORKCopyright 1978※Random house Pictureback 版では原絵本の大事なUNA BRUTTASTORIA のページの文章をカットしている。つまりコロンブスの航海が先住民インディオに対する野蛮な物語の始まりであったことを米国の子どもたちには隠そうとしているのだ。(よしだごろう)

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年8月20日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その10

  Photo_3              

Nihon1

     吉田 悟郎
東京:旧制成城高校新聞部OB

 

   
 武蔵野美術大学美術資料図書館で「世界の表象:オットー・ノイラートとその時代展」が昨2007年9月25日から10月21日まで開かれたことがあることをネットで知った。その図鑑の目玉に当たる部分がネット上でみることができる。そこに並ぶマリー・ノイラートのアイソタイプ研究所作成の『科学の絵本』二巻(ものの中がみえたなら、それはいったいなぜでしょう)それに『絵解き人類史』三巻、いずれも旧日本評論社の若い出版編集者だったとき、わたしが興味を持って手がけ翻訳した絵本だった。

目で見る日本史、第一巻のみで未刊に終わったが、『日本の国ができるまで』(毎日出版文化賞)の編纂の際、刺激と支えになったアイソタイプの絵本である。亡き高橋さん、松島さん、和島さん、それに東宝撮影所美術部の宮森さんとともに編纂に苦労し楽しんだ。私たちの絵本の抜き刷りを送り感想を求めたアイソタイプ研究所のマリー・ノイラートさんから激励と批判の返信をいただいたことがある。

同書の末尾にある「この本ができるまで」に付記して私は次のように記している。

1950年2月、編集者ヨシダは、この本の図版校正の数種とともに、ロンドンのノイラート教授夫妻に次の主旨の手紙を送った。

 われわれの仕事のひとつの大きな刺激が、ノイラート教授夫妻の『小学校のための革命的シリーズ』の「目で見る人類史」であること、日本の学問の水準とわれわれの微力とから、『目で見る日本史』の第一冊は、「簡素・明瞭・美しさ」の三要素をそなえるまでにはほど遠いこと、しかしこういう「自然主義的」で「ごてごてした」視覚教育の段階も今の 日本では一度ふまねばならぬ段階であること、こういう主旨の手紙で視覚教育の大先輩ノイラート教授夫妻の批評をもとめた。

 3月13日に敬愛するマリー・ノイラートからヨシダあてに、次のような返事がとどいた。

『・・・目で見る日本史の一部見本うけとりました。たいへんありがとう。皆さんのデザインは私どものデザインとはずいぶん違っているように見えますが、同時に、多く類似点とする企図もよくわかります。私たちは私たちの方法の進歩のために二十年以上の年月をついやしました。私たちが《簡明さ》に到達するためにはらったと同じように、皆さんは非常に多くの忍耐・試練」・思索を経験することでしょう。私たちは、今なお新しい研究課題へと努力をおしすすめています。・・・』

いま激励のことばをうけつつ、わたしどもは、「目で見る日本史」の第二のこころみをすすめようとしている。ヨシダ ゴロウ・・・・・

ノイラート夫妻のうち、オットーはウイーン学団の指導的人物の一人で科学哲学者・社会学者・政治経済学者。ナチスの占領を受けイギリス亡命を余儀なくされ、オックスフォードに移り、1945年亡くなった。妻のノイラートはアイソタイプ研究所を受け継ぎ1980年代後半に亡くなっている。

アイソタイプは、もともとは児童教育のために開発された、単純かつ明瞭に情報伝達するために創案された視覚言語である。グラフィック・デザインに大きな影響を与えた。

『百万人の数学』『市民の科学』『洞窟絵画から連載漫画へ』で知られたランスロット・ホグベンもマリー・ノイラートの科学啓蒙絵本の編纂に協力している。

      
資料
:【日本の国ができるまで】【図録
    世界の表象: オットー・ノイラートとその時代」展の
       インフォメーション・ブログ

    

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年7月16日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その9

Photo_3 朝鮮五葉松の目線でー東北アジアを巡る

         吉田 悟郎東京:旧制成城高校新聞部OB             


 鶴見良行はナマコの目を通してアジアの社会や歴史・政治を考えようとした。
私も朝鮮五葉松の目線で東北アジアの人々の社会や歴史を考えてみようとした。
いま田中宇は国際ニュース解説のなかで『日米安保から北東アジア安保へ』という国際政治の動向を先読みし、アメリカの北東アジア戦略の大転換を察知し、アメリカにとっては米軍を日本に置いておく必要がなくなり、日米安保同盟の解消が次の段階として見えてくると大胆な予測を試みている。
 
私の朝鮮五葉松を探す旅は,実際に松の生えている東北アジアを歩き回る旅ではなく、もっぱら本・雑誌,テレビ・映画のなかで、2000年10月下旬以降はネットでも、松を探すという想像による空想旅行であった。ところが、そういう朝鮮五葉松探索の旅を始めてみると、そういう松のそばで、いままで気づかなかった地域や人々が見えてくる。せりだしてくる。国内でも盛岡だの田名部だの十三湊だの、富良野の東大演習林,上高地、八ヶ岳。国外ではアムール流域、ウスリー流域、ビキン流域、沿海地方、北間島など、東清鉄道(のちに東支鉄道、中東鉄道などと名称を変えていく鉄道)の沿線など、さまざまな、これまで知らなかった地域が浮かび上がる。どうしても、そういう見知らぬ地域の地図がほしくなる。富良野の演習林などは8~9枚の地図が必要だ。テレビでは数は少ないが、オホーツクの流氷を追う番組、アユトンとアイヌの交流、吉林省撫松の樹海に入り朝鮮人参を掘り当てる番組、ウスリー虎の捕獲・保護に苦労するロシア人、淺川巧を描いた番組。映画では『もののけ姫』『デルス・ウザーラ』、ナナイの民族舞踊の収録など。ロシア・極東の写真では、福田俊司の『シベリア大自然』『ウスリー虎を追って』『シベリア博物誌』『シベリア動物誌』。むさしの・多摩・ハバロフスク協会『シベリア大自然』、M..ヴィソコフ『サハリンの歴史』『どんぐりの雨ウスリータイガの自然を守る』『ビキン川のほとりで沿海州ウデヘ人の少年時代』など、朝鮮五葉松を訪ね、東北アジアをめぐる空想旅行を彩ってくれたものは数え切れない。
 
今まで無知・無関心だったもの、朝鮮五葉松とともに生えていた針葉樹・広葉樹、朝鮮人参、それらの球果の恵みにあずかる月の輪クマ・ヒグマ・アカシカ・ニホンジカ(東北アジア一円に生息しているのだ)・ノロジカ・イノシシ・クロテン・モモンガ・リス・シマリス・ノネズミ・野鳥など。あのバイコフが子供向けの書き物を含め、数々の自然讃歌、紅松(朝鮮五葉松)讃歌を残している。
 
その脇で雲散霧消した人間どもの歴史とは異なり、森林の世界では大変な調和が保たれ、何一つ無駄がない。植物も動物も微生物も大地や岩石もみな連なっている。一生懸命生きている。何か一つのものが自然を征服したり支配したりすることはない。
「神の定めた調和の世界」「一つになった世界」だ。
樹海に生き、森に遊んだすばらしいひと、「どろ亀さん」が北海道に居る高橋延清さんだ。まだ生きておられるだろうか。彼の詩集に次の詩がある。

        森には

        なにひとつ無駄がない
        
植物も動物も微生物も
        
みんな連なっている
        

        一生懸命生きている
        
一種の生き物が
        
森を支配することの
        
ないように
        
調和の世界に
        

        森には
        
美もあり 愛もある
               
はげしい 闘いもある
        
だが
        
ウソがない       高橋延清『どろ亀さん』より

 『もののけ姫』の宮崎駿は、いう。「この世の中に生きていて、いわれのない、不条理な、肉体的にも精神的な意味も含めて、ババを引いてしまった人間たち」「それは今の若者の共通な運命であるはずですから、この時代、この東アジアに生まれてしまったというね」「ひとつの村が滅びることが、その人間にとっては、全世界が滅びるに等しい、そういう意味をもった時代があるわけですから。そういう意味では、人間が感じられる絶望も、その苦痛も量は同じですよ。」「多分、僕らが今、時代に感じている閉塞感を含めて、いろんな気分というものは、何度も繰り返し繰り返し歴史のいろんな場所で感じられてきたはずなんですね。ただ何となくスケールが大きいからね。こりゃ本当のドン詰まりなのかというと、そうは簡単に行かないことも、歴史は証明しているから。」
 
この時代、この東アジアに生まれて、一時 覇者・支配民族になれた日本人。敗戦後も、勝者米国の占領と従属化に、再び繁栄と安定を味わい、その味が忘れられなくなった私たち日本人は、不幸にしてか、当然の報いか、自分たちが下敷きにした地域や国々、民族や老若男女、子どもたちの存在と意味、尊厳性と価値がいまだに見えない。受け止められない。そういう暗闇と空洞のなかをいまだにたゆたう、さまよっている。多様な意味があったアジアの膨大な時間と空間。それをぎっしり埋めていた自然と生き物の気配と声が感じられない。実に不安定な心と眼の暗闇と空洞の中をたゆたう、さまよっているのではなかろうか。
 
東北アジアにひろがる朝鮮五葉松への旅は、日を重ねるにつれ、そういう反省、そういう思いをつのらせていった。絶望感や閉塞感。征服民族・支配民族の子に生まれざるを得なかった自分たちの不条理な運命、さらに敗戦後の歪んだ敗戦処理と植民地放棄、そして偽りの独立回復、黄金と戦争にまみれた高度経済成長、バブルのはじけ、失われた十年。若者たちの絶望感と閉塞感は深まり・くすぼり、どうしてもこの絶望と閉塞の現況を突き破るような、もっとスケールの大きく、そして現実なり矛盾の複雑性と多元性・多層性・多様性をとらえるような視点と枠組みを要求しつつあるのではなかろうか。そういうスケール、そういう視点と枠組み。新たに自然と生きものとの関係をとりこんだ歴史観/世界観が必要になっているのではなかろうか。
『もののけ姫』ガ生まれるころ、ちょうど進行していた私の朝鮮五葉松を訪ねる空想旅行は、宮崎駿が考えたと同じことをわたしに教えてくれた。
福田俊司は『シベリア博物誌』でいう。
「ウスリーのタイガにとってチョウセンゴヨウ(ケドル)は特別な木だ。<シラカバ林では人々は陽気に楽しみ、ケドルの森では人々は祈る>とロシア人は語りあう。荒々しい樹皮、まっすぐに30メートル以上に伸びるケドルは人間を敬虔にさせるなにかを持っている。」チョウセンゴヨウ即チョウセン松(中国東北・ロシアでは紅松・ケドル)植物圏
の一員であった日本列島の日本人は、文明的には母胎というべき東北アジアのチョウセン人やカン人、ツングース系のマン人(女真、女直)、ナナイなど、ロシア人ともつきあい、東北アジアの自然とまあまあバランスをとって共に暮らしてきた。最近のある時期から蒼海(東海・日本海)の東南辺の列島のニホン人が、長い間つづいた平和を破り、征服者・覇者に変身し、東北アジアから東アジア、西太平洋地域を征服・支配しようとした。敗戦後、米国の従属化にエコノミックキラー、エコノミックテロリストとしてアジアから全世界に進出しようとし、いまそういう時代は終ろうとしている。
 
かつて長い長い間、人間も自然の一員として、チョウセンマツを含めた自然とバランスよく共生してきた。植物・樹木も遷移の現象はありながら、他の動植物・土地・風土とバランスよく共存してきた。森林の世界、大地と空気、そして動植物の世界、そこには何か一種類が覇者・支配者となり、他のすべてを征服・支配するようなことはなかった。東北アジアでいえば、日本列島でも朝鮮半島でも中国東北でもロシア極東、東シベリアでも生息し、活動しているニホンジカが、あるとき征服者となり他のすべての動植物・自然・大地を征服・支配するようなことは起こらなかった。東北アジア全域の山野における愛すべきニホンジカの存在が、同じ地名・国名のついたニホンジンという人間の近い過去と現在を際立たせている。何時の日か、人間はニホンジカのような生物に精神的にでも近づけるようになるだろうか。わからない。難しいことであろう。
                                          
2008/7/11

東アジア史への試み
北方史を描く愉しさ 下記のアドレスで読んでくださいhttp://members.jcom.home.ne.jp/goloh/eawh.html

(ソバの話、山丹交易など)
朝鮮五葉松への旅全話が縦組み・大き目の活字で次のサイトで読めます
http://members.jcom.home.ne.jp/goloh/pkmokuji.htm

朝鮮五葉松への旅  目次
朝鮮五葉松への旅 序
朝鮮五葉への旅(韓)
朝鮮五葉松への旅 二〔露)
朝鮮五葉松への旅 三(中)
朝鮮五葉松への旅 四(日本) 朝鮮五葉松への旅 むすび 
こぼればなし2黒テンの話
こぼればなし1朝鮮人参の話
こぼればなし3チョウザメの話
北海道の朝鮮五葉、アフガンの松の実

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年5月21日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その8

Tosho2008  Photo                     吉田 悟郎(東京:旧制成城高校新聞部OB)





岩波の『図書』が毎月届くと真っ先に必ず読むのが鶴見俊輔の「一月一話」である。5月号の「わたしの求めるもの」に次の数節があった。

「軍港を囲む金網の向こう、丘の上に、おそらくは華僑の住むこじんまりした家が、ぽつんと立っていた。

軍隊と離れてあの家に住んでいるなら、私にはほかになにも望みはないという、痛いほどの感じあった。それ以上の夢は私にはない。その中に何ものもない時間の流れ、それが私にとって最高の望みだった。二○○八年三月二五日、今の私は、その希望の中にいる。生き残って、軍隊の外にいる。幸福ではないか。

シンガポール軍港の金網の内で夢みたそのすべては、かなえられている。食べもの、住む場所、そして軍隊の外にいるという現実。一九四五年の敗戦の日から六十三年、私は、幸福を自分のものとした。そのことを忘れない。他のことは、つけたりだ。」(『図書』2008年5月号 51頁)

   
 鶴見   1922
生まれ        私     1921生まれ

1936-37 府立五中                 1934-37 府立五中

1937以後 米国留学                    1937 以後   成城高

ハーヴァード大 哲学                  東大独文/西洋史

1942-45海軍軍属 独語通訳       1942-45  陸軍

 
 以上、簡単に鶴見と私の経歴を比較してみた。彼の3月25日の文章は全く同感で私もうっかり忘れていた大切なことを気づかせてくれた。軍隊にいまなおいるという悪夢を見なくなったのは最近ではなかったか!!

加藤哲郎の『ネチズンカレッジ』5月1日に下記の一節がある。

<数年前に、この曲の作詞作曲者小林朗さんにお会いしてインタビューした時、私にとって一番ショックだったのは、小林さんご自身の口から「私たちは、戦争の一番の犠牲者なのですよ」とお聞きしたことでした。「大正生まれ」──1912-25年生まれの人々は、敗戦時に20歳-35歳、日本本土でも植民地朝鮮・台湾でも、アジア・太平洋戦争の最大の犠牲者でした。同世代の多くの友人が、青春ばかりでなく生命を奪われました。死との背中合わせを体験し、生き残ったこと自体が好運でした。それが戦後復興から高度経済成長を第一線で担い、ようやく悠々自適という時に「失われた十年」に突入し、年金が消されたりごまかされたり、「受益者負担」にさらされて医療費や介護保険の自己負担が増え、あげくのはてに「後期高齢者」という名で、少ない年金から保険料を天引きされているのです。「生活本位」の政治なら、「消えた年金」とこの老人医療問題を、徹底的に追及すべきです。>

 ついでに,「大正生まれの歌」の新作を引用させていただくと・・・・

<憲法記念日を前に、千葉県の蘇人生さんから、「大正生れの歌」の新バージョンが送られてきました。

大正生まれの俺たちは 今では後期高齢者 

貰う年金あてにして 細々生きる身なれども

介護・医療と差し引かれ そのうち末期高齢者

それでも生きるぞ なあお前
   
それでも生きるぞ なあお前 

参照:「大正っ子のパソコン操作」 大正生まれの歌】(一、二) (三、四)

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年4月16日 (水曜日)

世界史の野蛮化・地獄化の<終わりの始まり>・・・・・・吉田 悟郎・・・・・

Yosida                                                         

白樺湖のニ谷さんから新しい白樺便りをいただいた。その冒頭に『TBS系とNTV系とで東京大空襲に関するドラマが放映された。TBS系では、空襲罹災の33枚の写真を撮った石川光陽の物語に仕立てられていた。他方NTV系の二夜連続のドラマはいくつかのエピソードをつないだものだが、歴史考証には、吉田裕氏の名があった。植民地下の朝鮮人の動きを織り込んだものだった。・・・・3月10日の無差別爆撃計画は、関東大震災に学んで同じ場所・範囲を標的にし、油脂焼夷弾を使用した。言問橋の悲劇が作られたのであった。無差別・絨毯爆撃が平然と行われたことが、ドラマであきらかにされている。小生が隅田川を挟んで、反対側に住んでいたことを思い出す。』私もこの東京大空襲のドキュメントとドラマは見た。戦犯カーチス・ルメーの顔とクラスター式焼夷弾が無気味な音をあげて低空からばらまかれる地獄も再びしかと見届けた。ドラマは5月25日の大空襲も扱っており、余り知られていないトンネルの野蛮な機銃掃射も再現されていた。上野駅近くで機銃掃射にやられる女主人公が<もうこんなひどいことはおしまいにしてくれ>という死に際の悲痛の言葉は 胸を打つ。

 この歴史の再現の試みはヒットだと思う。東京大空襲はその野蛮性と地獄性がたくみに隠されてきた。昭和天皇の眼からも、東京のど真中に居りながら石川光陽が写した亡骸は隠された。いっしょに見た家人は「わたしたちは運良く生き残ったのね」と洩らした。私自身は二回目の学徒出陣で運良く外地に行かず東京と横浜で軍隊生活を送れた。3月-5月の東京大空襲と5月29日の横浜大空襲は軍隊で身近に体験した。5月の東京空襲では留守宅の兄夫婦、二人の年寄りは被災し留守宅の私の蔵書・レコード類は灰燼と化したが、わが身は無傷で生き延びられた。無差別・絨毯爆撃・クラスター式ナパーム焼夷弾の野蛮性・地獄性は十分全身で味わった。

 世界史の野蛮化と地獄化を犠牲になり死んでいったものも生き残れた者も体験したのである。その後の硫黄島・沖縄、ヒロシマ・長崎・・・その延長である。ふりかえれば、これは世界史の野蛮化・地獄化の終わりの始まりであった。この終わりは20世紀末期から21世紀初頭にかけてまだ終ってはいない。いまこの世界史の野蛮化・地獄化を最悪の形で味合わされているのが、中東-イラク戦争5年下のイラク民衆であり封鎖されたガザ-西岸-イェルサレムのパレスチナ人である。そして、かれらは世界の無視と沈黙のなかでこの世界史の野蛮化と地獄化を終らせようと戦い続けている。戦後の日本は、はたして世界史の野蛮化・地獄化とは無縁になっているのだろうか?

 沖縄を見よ。本土とともに、おとなにとってもこどもにとっても形を変えた<戦争状況下>の日常を、[新自由主義」の構造改革後「日米軍事体制再編」以後体験させられているのではなかろうか。もちろん、こういう世界史の野蛮化・地獄化を全面的に終息させる<<別の世界は 可能 >>という思想と運動が東西を逆転させ、南北を転換させ、野蛮化・地獄化の元凶を追い詰め、世界史の野蛮化・地獄化をもたらした構造をひっくりかえそうと育ちつつある。ようやく、世界史の野蛮化・地獄化が音を上げて倒壊する時代が近づきつつある。

                2008年3月22日イラク戦争5年
毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年2月20日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その7

41jkkux1czl__ss500_                     吉田 悟郎(東京:旧制成城高校新聞部OB)



まず現在の日本の直面している危機の分析からはじめましょう。」 

わたくしはこの上原専祿先生の最初の発言を聞いて、率直にいうと「しまった」と感じた。それは世界史の編集をはじめるというのに、そのような心がまえを迂闊にも失念していたからである。
 
最初の編集会議だというので、いくらかは内容構成のことなど準備して出席したわたくしは、このことばによって完全にふりだしに戻らざるをえなかった。そしてその日から、われわれの仮称する「上原ゼミ」が開始された。それはいまから八年前、昭和27年(1952年)の真夏のころのことであった。>
 
上原専禄監修『日本国民の世界史』が岩波書店から出版されるにあたり、東洋史家西嶋定生が岩波『図書』130号『1960年10月』に掲載した『八年間のゼミナール』というエッセーである。
『日本国民の世界史』のまえがき(
冒頭8頁)は次のように始まる。
 
≪この「日本国民の世界史」は,われわれ日本国民が明日への生活をどう生きるかという問題に面して,日々の行動を支える生活意識を確立したいという願いにもとづいて,
世界史像の形成を試みたものである。
 
この書物は,
このような問題意識から編纂叙述されたものではあるが、もともとは高等学校社会科の世界史教科書として執筆され、数年にわたって使用されたものを、改訂版として再検討再執筆したものである。ほじめこのような教科書として執筆したのは、当時このような問題意識にもとづいて編纂された世界史の教科書が絶無であり、世界史教育のためには、こうした意識にもとづく教科書の出版が必要であると考えたからにほかならない。
 
いうまでなく歴史教育は、そしてまたそれによってつちかわるべき生活意識・歴史意識は,学校教育の場においてのみ問題とされるべきものではない。それはまさしく国民全般に共通する問題なのである。この書物は、その発足において学校教育における教本として企画されたとはいえ、われわれが意図したところは、まさにこの国民の課題としての生活意識・歴史意識の確立と深化であった。しかるに、今日の日本における教科書検定制度にあらわれた弊害の結果、この書物は後述するような経過で、教科書として出版することが不可能になった。それ故、これをあらためて単行書のかたちで広く国民に公刊することこそ、われわれの義務であるといわざるをえない。
・・・・企画にあたって、まず最初に問題となったことは、編別構成とか執筆分担などのことではなく、いかにも大げさな言いかたではあるが、われわれ日本国民の当面する危機の分析であった。このような大問題に対して、われわれの分析力がいかに不十分なものであったにせよ、ここから着手されなければ、企画の具体化は進展しなかったのである。そして討議の過程を通じて、われわれの念頭に世界史の塑像がしだいに形づくられていったのであった。
 
本文を一見すればすぐ気づかれるであろうように、この「日本国民の世界史」は、まず東アジア文明の歴史から叙述がはじまり、ついでインド文明・西アジア文明の歴史が、さらにヨーロッパ文明の歴史が叙述されている。そしてこれらの諸文明が一つの舞台に登場する--すなわち世界史の一体化がはじまる--「近代」以後の歴史が叙述の後半を占めている。このことはわれわれの世界史の塑像が、かって地球上に存在したいっさいの文明圏を展望することによってつくられたことを意味するものではない。われわれは最初から、たとえば人類一般の歴史を叙述することを意図したのではなかったのである。それゆえにまた,人間社会の発展の普遍的な法則性を追及することも当面の課題ではなかったのである。またそれとともに、人類が過去に形成したあらゆる文明を普遍的に叙述することもまた,
当面の課題ではなかったのである。
 
われわれが主として意図したものは、われわれ日本国民自身の生活意識・歴史意識の形象化であり,世界の諸文明がいかにして日本文明の成長に寄与したか、また現在の日本の直面している歴史的な諸問題が,
それら諸文明の動きによってどう規定されているか、それらの点を特殊具体的なものとして主体的に追求することであった。東アジアの文明からまず叙述がはじまるこの書物の構成は、このような意図を具体化した試みにほかならないのである。≫(『日本国民の世界史』まえがき。)
西嶋定生の『八年間のゼミナール』は続く。
<世界史を学ぶということはどういう意味をもつことなのか、われわれはどういう立場で世界史を学ぶべきなのか、日本国民の立場から考えるべき世界史というものはどのようなものであるべきなのか、というような根本的問題が、現実の社会情勢と結びつき、国際関係と関連して、とめどもなくひろげられていった。そして宿題が与えられて次回にはそれが検討された。
一回の会合時間は5-10時間、年間平均20回。必ず全員7人出席。それが8年間つづいた。
 
文部省との問題で紆余曲折をたどりながら、そして今度ようやく『日本国民の世界史』として出版されるのであるが、この「上原ゼミ」は今後も終了することはないであろう。そうであってほしいと思う。正直なところ、わたくしはこのゼミで、歴史を学ぶということのきびしさを、身をもって学ぶことができた。問題の討論、整理、原稿作製、プリント印刷、一字一句につき検討、書きなおし、ふたたび検討、書き直し、という具合に、わずか数行の段落の本文が最終決定されるまでには数回の「ゼミ」が必要であった。出来上がったものをみるとあっさりしたもののようであるが、われわれには感慨なきをえない。たとえば第一編の「元寇」の叙述、「江戸時代」の叙述のところなど、何回書きなおしたことか覚えてもいない。
岩波書店から出版することが決定してからがまた大変で、数頁の序文と現代史の最近一年間をつけ加えるために、とうとう20回会合し、検討のうえようやく完成したのである。>〔以上-引用終わり〕
 
文中「全員7人」というのは、上原専禄江口朴郎、太田秀通、西嶋定生野原四郎、久坂三郎、吉田悟郎である。吉田以外の六人の歴史家はすでに亡くなられた。久坂・吉田の両名は現場の高校世界史教師として参加した。西嶋は、1997年からはじまった戦後二度目の『岩波講座 世界歴史』の「月報」3(1997年12月)に、「世界史像について」という文章をよせている。ここでも西嶋は、実教出版の『高校世界史』『日本国民の世界史』の体験を書き、その延長線上に、前回の『岩波講座 世界歴史』があったはずだが、今回の講座は、それからどれだけ進んだろうか、と疑問を投げかけている。

鈴木亮はこう語る。
 
上原専禄監修の『高校世界史』(実教出版)は、1955年から使用された。「世界史を学ぶために」という16頁にわたる”まえがき”(岩波版『日本国民の世界史』では18頁)がのっている。この教科書を当時わたしも使ったが、この堂々たる論文を、生徒には難しいと思って、生徒といっしょに読むことをしなかった。いま思えば、もったいないことをしたものである。実は、生徒にとってむずかしいよりまえに、教師である私にむずかしかった。というより、理解するちからがなかったのだ。
先に述べた上原の『ものの見方・考え方』と『日本国民の世界史教育』と『日本国民のための世界史教育』の三つの文献は、いまもまたこれからも、日本国民がみずからをつくりあげていく、明日の国民を生きていく、ために必須の基本文献であると思う。
『日本国民の世界史』をつくった、私を除く六人の歴史家についてはウィキペディアその他GOOGLEなどで、当たっていただきたい。
鈴木亮は癌との苦闘の中で書きつづけた『世界史教育の50年』をこう結んでいる。こうして、世界史教育のなかで,問題がどこにあるのかが、ようやく自覚されはじめ、出そろった問題に向かっての、世界史教師たちの悪戦苦闘がはじまったのである。(96/10/18)

胃癌物語の末尾にこうある。

午後3時ドルミカム追加。このまま目覚めないかもしれない

最期の言葉を考えようとしていたがしゃれた言葉も出てこない。
ものがたり50年史もやりのこしありがとうみんな。ありがとうございました。みなさん。さようなら。

以下長男記:2000年1月6日23:25分父の屍の傍らにて。
 
上記の文章は1月5日の午前に呼吸困難が始まりもはやキーボードをたたく力も無くなった父に命じられて、長男が口述筆記したものです。その4時間後、呼吸の間隔が次第に間遠になり2000年1月5日18時45分父は息を引き取りました。眠るような静かな最期でした。

毎日更新ブナ林便り 編者
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

| | コメント (0)

2008年1月23日 (水曜日)

ある編集者の歴史 その6

Photo_2               吉田 悟郎(東京:旧制成城高校新聞部OB)

  

 

1952年4月都立広尾高校での世界史授業を始めた時、私は新校舎本館屋上のテラスにクラスの全員を集めて開口一番、これから<いまここ渋谷―広尾に生きているわたしたちと関わりのある世界史という勉強を、いっしょに学びあい、探索しあいそういう今までなかった私たちの世界史をお互いに編んでいこう>という、まことに威勢のいい宣言をした覚えがある。こういう、私が世界史開講で宣言した<いま>とはどういう<いま>であり、<ここ>とはどういう<ここ>であったか。そして、<わたし><わたしたち>とはどういうものを考えていただろうか。

テラスから眺められる、まだ緑が豊かであった自然と街並みは、大岡昇平が『少年』に精密に描きのこしてくれている。しかし、大岡が懐かしみ描き残したミクロな地域は東京から中国、レイテ、アメリカにつながっている。私の<ここ>はそれ以前、それ以後どう変っていっただろうか。
<いま>については、私の当時の発言、問題提起にあるように、
<敗戦国民として/国籍をうしなわされたような子どもたち/荒廃・家族崩壊・占領の下にあり、自己の存在を未だ確立できないでいる教師や親の魂に染み入るような世界史/不幸な日本人の肌に合うような世界史/アジアの叢の中から/根強く受け継がれて来た植民地支配者根性・植民地保有者根性の克服/東南欧・アジア・アフリカ・中南米・太平洋とのつながりのなかで/いままでの西洋中心の見方ではダメ/科学的歴史に安座していいのか・・・>以上、もろもろの問題意識が混沌として渦をまいている状態であった。これが当面私の<いま>であり、<ここ>であったのである。

1956年11月15日、東戸山中学で、上原は『日本国民のための世界史教育』という講演を試みている(上原専禄歴史意識に立つ教育』1958年、国土社所収)そのなかで次のように述べている。これが私の学習実践の第二の起点となった Uehara_3



≪私が言う世界史の学習とは、たとえば高校で普通行われていると考えられる世界史の学習というものとは違う。世界史の教育とは、誰かが書いた世界史の教科書・参考書を覚えこませて、確かに覚えているかどうかをテストしていくことではない。
 
また国民として世界史を学習するということは、誰かの教科書をこつこつ勉強して、そこに書いてあることを覚えようとすることではない。もしも高校での世界史の学習がこういう具合にしか行われていないならば、それはとんでもないことだ。そこで世界史教育というものは、今日までの主だった事件や事態についての一般的な知識を与えることではなくて,子どもが、やがては国民が自分の頭で世界史像を描いていく、そのための素養を与える、そのための基礎練習をさせることではないか。
数学や英語の教科で、それをうのみにするということはない。どのような問題が出ても、何とかそれを解いて行ける方法を持たせるのが、数学教育や英語教育の意味である。国語教育でもそうだろう。世界史教育も全く同じであり、世界史と