二つの敗戦日記を読む
吉田 悟郎(東京:旧制成城高校新聞部OB)
恐慌が深まると、戦争待望の空気が燻ぶる。防衛費強化の世論醸成が前触れとなる。軍隊、戦争、絨毯爆撃などの悪夢は、敗戦後おさらばできたように思えたのも束の間、いまや再び・・・・である。
かつての悪夢を、いやなこととしてあまりにも安易に忘れてしまい、成城の大先輩である大岡昇平が、辛苦して編んだ『レイテ戦記』のような作業を怠り、悪夢を誰もが納得できるちゃんとした『昭和史』として編み、みんなの脳裏に忘却できぬよう刻み込む作業を回避してきたのではなかろうか。大岡は、フィリピン人民を含めて死者・被害者との共振・共闘が志され試みられている、稀有の労作を遺してくれたのだ。市販の戦史、昭和史とはそこが違う。戦前・戦中学生時代、新聞部OBが共同制作で編んだ誇るべき集団的労作(私家版)『成城文化史』があるが、残念ながら空襲で消滅してしまった。それを細々と受け継いだ『新聞部秘密日誌』は、戦後プリントできて私も一部もっている。
これらをいわば下敷きにして、いま、あらためて戦中日記の代表的なものを読もうと決心し、まず清澤 洌の『暗黒日記』(昭和一七年一二月九日~昭和二〇年五月五日)(橋川文三編集、評論社・復初文庫、1979年)と、山田風太郎『戦中派不戦日記』(昭和20年の日記)、(講談社文庫、2002年)の二冊を読み出した。次にまだ入手していないのだが、やはり有名な 永井荷風『断腸亭日乗』と、野上弥生子の『日記』(岩波の『野上弥生子全集』第二期の中の19冊)を、ぜひ読んでみたいと思う。
山田風太郎は、2001年享年79歳でなくなった。1922年大正11年兵庫県生まれだから、1921年石川県金沢生まれの私と一年しか違わない。鶴見俊輔も1922年生まれだったはずだ。しかし、まず違うのは5歳のとき父をなくし、中学一年から二年になる春、母をなくしている。私が父をなくしたのは兵隊にとられてからだ。山田は、母にも死なれ、やけくそになり、中学五年のとき停学となる。勉強はちゃらんぽらん、体格はひょろひょろ、親戚の回り持ちで養われている身。1942(昭和17)年、二十歳の夏に家出し、東京の沖電気に就職する。前年12月8日太平洋戦争勃発。就職は勝手にしたのではなく国営の職業紹介所指定で、軍需工場に勤めるよりほかになかった。働きながら医学校進学を目指す。受験料はない。郷里に頼れない。上司に借りる。受験勉強は全くしていない。試験は落第。1944(昭和19)年、肋膜を患い、肺浸潤。一週間後、召集令状。帰郷、徴兵検査。不合格、即日帰郷。帰京翌日が医学校の願書提出。入試合格。東京医専(新宿の東京医科大学)の学生となる。ときに22歳の春。
大学・専門学校修学年限切り上げは1941年10月に始まっている。医者になれば軍医、学生である特権は医学生のみに残されていた。山田風太郎『戦中派不戦日記』は1945(昭和20)年敗戦・最初の亡国の年のみの日記である。この日記の記述が始められる約1カ月前の1944年昭和19年11月24日、マリアナ基地のB29による東京への本格的空襲が行われている。この次の日、山田医学生は東京に来て、初めて知人とともに住む。開戦から三年目にして、<傍観者>であった東京市民が<傍観者>ではなくなる。日本が絶望状況に入った1945(昭和20)年、山田の絶望状況に、日本という国がはじめて近づいたのである。疎開先の飯田で敗戦を予感したとき、山田医学生は、日本という愚かな人間で満ち満ちている国を愛することができる。<可哀想な日本!>そう断言できたとき、その相手が死ぬときだったのだ。8月中の記述は、熱烈な日本への愛情で埋められている。狂った8月が過ぎ、9月冷静、くやしさ。淡々と愛してきた人は淡々と口惜しがる。「負けるって情けないことじゃなあ」ある老婆の述懐。「昨日の新聞の天子様のお写真はどうです。あの敵の大将と一緒の・・・お可哀そうになあ、あんまりウツリもよくないに・・・」。空襲を受けても、敗戦後も、庶民は、呑気であり、よく笑う。
連日連夜の東京空襲。牛込山伏町、もう何ともいえぬ妖気。罹災民の群れ、リヤカーに泥まみれの布団、赤く焼け爛れた鍋など、額に包帯した老人、幽霊のように髪の乱れた女・・・。あえぎあえぎ通り過ぎていく。店みせのガラスは壊れ、看板は傾き、壁は剥げ落ちている。これらは灰色の塵が厚くこびりついているのを見れば、この一夜で変貌したものではなく、過去の三年間、日本が苦戦に苦戦を重ねてきた陰惨な過去の三年間の結果に相違ない。鳥も鳴かない、青い草も見えない。鋪道のそばに掘り返された防空壕の上に砂塵がかろくたち迷い、冷たい早春の日の光が虚無的な白さで満ちているばかりだ。時々仰ぐ空には、西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる。四つ五つ火の塊に分解して落ちていく奴もある。・・・ザザッーダダダッと凄まじい音、ついに焼夷弾の雨。五反田へ行く大通りへ出た。とたん、ザザッという音、広い街路は見晴るかす果てまで無数の大蝋燭をともしたような光の帯となった。空は真っ赤に焼けただれ、凄まじい業火の海は轟いていた。煙にかすみ、火花に浮かんで、虫の大群のように群集は逃げる。泣く子、叫ぶ母、どなる男、ふしまろぶ老婆―まさに阿鼻叫喚だ。高射砲はまだとどろき、空に爆音が執拗につづいている。横浜はまだ燃えている。5月29日の朝やられたというのに30日、31日、6月1日、2日、3日の深夜まで、いったい何が燃えているというのだろう。月はまだ昇らず、ただ暗黒の中に、全市灰燼となった残骸が、赤い火をチロチロと不知火の大海原のように燃えつつ拡がっている。棒杭のような無数の黒い柱が蛇の肌みたいに光って、何たる凄惨、陰刻、粛殺の景か。・・・どっと罹災者が乗り込んできた。大半は負傷者。丸太のように足を包帯で巻いた少女、手を首でくくった老人、仲間にかつがれてきた物体はミイラのように全身包帯で、顔面に眼と鼻と口が四つのちいさな穴、老人か女かの見当もつかない。可哀想に可哀想にという声が聞こえた。
山田風太郎はあとがきに書いている。「・・・・自分で読んで背に汗が出るような部分も、当時としてはそのように書く何らかの必然性があったのだ。しかし、それよりも忸怩たらざるを得ないのは、結局これはドラマの通行人どころか、「傍観者」の記録ではなかったかということである。むろん国民のだれもが自由意志をもって傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても―例えば私の小学校の同級生男子34人中14人が戦死したという事実を思うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、ある意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあった。そしてまた現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごときである。昭和10年以前の「歳月と教育」の恐ろしさもさることながら、それ以後の「歳月と教育」の恐ろしさよ、日本人そのものがあの当時は今の日本人とは別の日本人であったのだ。当時すでに、いまとは別人の逆上気味の私でさえ、戦争に対するものの見方は公平に見て私のまわりとはややちがうことを自覚していた。今ふり返って失笑ないし理解を絶するところは、ほかの人々にはもっと多量に存在していた。しかし、それはほんとうに別の存在であるか。私はいまの自分を「世にしのぶかりの姿」のように思うことがしばしばある。そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。また三十年ほどたったら、いまの日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにはならないか。いや見ようによっては、私も日本人も、過去、現在、未来、同じものではあるまいか。
げんに「傍観者」であった私にしても、現在のぬきがたい地上相への不信感は、天性があるにしても、この昭和二十年のショックで植えつけられたと感ずることが多大である。人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起こすことも。 昭和四十八(1973)年二月 山田風太郎」
私は1942(昭和17)年、大学を繰り上げ卒業。文学部は独文を一年で見切りをつけ西洋史科に転科したから西洋史科には一年半しか居られなかった。10月1日、九段の近衛歩兵第一連隊に現役入隊し、1943(昭和18)年以降は近衛師団司令部参謀部情報班の班員として、空襲・防空情報の収集、隷下連隊への伝達を仕事とした。いま、ふりかえると、いまの北の丸公園の一角に残る国立近代美術館別館工芸館の建物になっている司令部におさまり、東京空襲時には千鳥が淵に面した防空壕にかくれ、空襲の被害状況を電話で収集整理するという、情報班といえば格好がいいが<傍観者>にすぎなかったと思う。医学生山田とは比べものにならない<傍観者>だったのだ。しかも、東京船舶隊という本土決戦に備えたいわば実戦部隊の司令部に移り、5月25日の東京大空襲で司令部にしていた伊皿子坂上の邸宅が消失し、横浜野毛山に移った司令部が、5月29日の横浜大空襲では焼け残り、のうのうと生き延びられた<傍観者>にすぎなかったといえよう。東京の5月大空襲、横浜大空襲も体験し、世田谷区東松原の家は焼失しながら。あれが「体験」といえるのか。
続けて、清澤洌の『暗黒日記』を読む。
清澤 洌(きよし)彼は正木ひろし、桐生悠々、あるいは石橋湛山とともに昭和前期におけるあ稀有のリベラリスト、独立派の言論人であろうか。
長野県南安曇郡北穂高村の人、1890(明治23)年生まれ。敗戦の直前、1945(昭和20)年5月21日に急性肺炎のため聖ルカ病院で急逝。生涯の仕事は外交史研究と評論。昭和17年12月から、死ぬ直前の昭和20年5月5日までの戦中日記は、英訳され米国で出版、日本版は橋川文三と北岡伸一が解説と構成に当たり評論社から出版された。ちくま学芸文庫にも入っている、清澤洌の『暗黒日記』である。
この日記の昭和19年1月4日のところに熱海の岩波茂雄別荘で二男坊岩波雄二郎(当時東大西洋史科学生)に会い、「中々頭が確かである。」と書いている。彼は旧制成城高校新聞部の私と同じよき仲間で、彼のことは先に書いた。1941年夏の北軽井沢の岩波別荘での合宿や小海線沿線での小旅行など、われわれ青春の思い出がある。清澤の日記に書かれているときは、私は既に兵隊にとられて、軍隊にあった。
さて私は山田風太郎の戦中日記に次いで、この『暗黒日記』にとりかかった。かねがね読みたかった本である。彼自身述べている。「私は全くの独学者です。正式に学校の門をくぐったのは、ほんの暫くの間だけでした。しかし、今から顧みて、学問というものは、学校に行くということではないと考えます。物を学ぼうという精神のことなのです。三ヵ年、学校へ行って勉強するよりも、三十ヶ年、たえず知識を吸収する方が、結果がいいことは確かです」。彼のきわめて広い国際的関心は彼の米国はじめ世界を股にかけた生き方と切り離しては考えられない。彼が影響を受けた井口喜源治の研成義塾は内村鑑三に共感した無教会派の井口が北穂高に開いた私塾であった。日本と世界と神との三位一体の信念の上に立つならば、日本が世界から孤立して独善の知識をもち、独断の行動を行うことは不可能でもあり、許されることでもない。その精神において 世界についての無知と戦うことが、彼の生涯の仕事となる。日記はその戦いの記録となる。
清澤は昭和4年のころからすでに自称愛国者たちの攻撃目標にされ、のちには非国家主義的リベラリストとして言論報国会からボイコットされている。事実、当時の政治指導者に対し忌憚ない批判を続けたし、国民に対しても痛烈な批判を行っている。冷然と日本を批判するかのような姿勢の根底にあったものは,国士ともいえる烈々たる愛国者の気概である。時局を冷眼視するだけの口舌の徒ではなかった。
彼は刻々迫るデッドエンドを悲痛な気持ちで見守りながら、それを克明に記録してゆく。
○ 「現代史」を後日、書くために記録に止めおかんとするにすぎず。
○ また、後日の資料にくだらない雑書類も買い集めておく。
清澤は一貫して、日本の戦争指導に含まれる巨大な暗黒のシステムを、すべて<教育>の歪みから生まれたものと考えている。自ら日本の高等教育過程をふまなかった清澤には、日本の教育システムの決定的な歪みがより冷静にリアルに感知されたのであろう。
迫りくる敗戦で日本の国民はより賢明になるだろうか? 彼はむしろ敗戦と亡国を体験してもなお、日本人の真の覚醒は望めないのではなかろうか、という疑念を抱いていたと思う。彼がまず指摘したのは、官僚主義(お役人の感覚)、形式主義、あきらめ主義(いい加減さ)、権威主義(おえらいさん)、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性等々。日本人の劣性(負の側面)の余すところない指摘。敗戦後日本の真の再生を 祈念する愛国者の厳しい自己反省。以下、部分引用を少し試みるが、ぞっとし、絶望するのは、この暗黒日記で指摘されている日本の指導者・政治家、主権者たるべき国民、それら総ての今日における負の側面がそこここに見受けられると思わざるを得ないということである。
私自身の課題から言うと、教育は敗戦後どう再建されたのか。教育システムはどうなってきたか。私たちの国際感覚はどう改造されたのか。世界認識、世界史認識は果たして健全に創造されたといえるのか、という問題である。
(以下 部分引用)
清澤洌の『暗黒日記』昭和一七年一二月九日―昭和二〇年五月五
日、(橋川文三編集、評論社・復初文庫、1979年)
★ 昭和17(1942)年12月9日以降
○政党の弊害、役人の弊害、結局教育だ。
○ラジオの低調はもはや聞くにたえぬ。
○それにしても政府の権限強化驚くべし。しかもその政府は何等統一せず。
★昭和18(1943)年
○モラールの問題だ。日本は全く行き詰まったのだ。
○形式主義は総てに表現す。外交に,統制に、政治に。
○議会はただ自己欺瞞のみ。不思議なる国民である。かかる自己満足で満足しうるとは、信ぜんと欲することは信じ得る国民だ。
○歴史を正直に書けぬ国だ。
○日本人の美徳はあきらめにあり。しかし積極的建設は到底不可能である。馬鹿な国民に非ざるも、偉大な国民に非ず。
○毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国においてかくのごとく貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要な時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。
○だが改まるだろうか。紙の上で形式主義の政治と観念遊戯と、他人の事を考えない国民の悪風は改まるまい。近頃、日本人というものが、ほんとに情けなくなった。
兵務局長が小学校教育のことを指導しているが、国民学校に配属将校をつけるとなると全く軍国政治だ。今でも専門学校以上は配属将校ニ非常に力があるのだから。
○朝のラジオを聞いていると、昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。こんな低俗な時代がかつて、また世界にあっただろうか。
★昭和19(1944)年
○帰りに岩波茂雄君を訪う。・・夕食をご馳走になり泊めてもらう。長男雄一郎芝浦の研究所、次男雄二郎東大の西洋史科・・・朝・・僕と二男坊と一緒に食事す。中々頭が確かである。
○東条は官吏を昔の士族と心得ている。したがって民間を一歩下の被統治階級と心得ている。大東亜戦争―満州事変以来の政情は、軍部と官僚の握手である。戦争を目的とする者と、一部しか見えない事務家、しかも支配意識を有している者とが混合妥協した結果生まれたものである。
○陸軍と海軍の感情的対立は,既にボイリング・ポイントに達している。日本の前途はこれに表徴されるところが多い。
○教科書は出来ない。燃料は行かぬ。漁業用油の配給では出漁が数日しかできぬ。交通関係はいうまでもないで―それ等がようやく切迫して来たのである。戦争そのものの結果ではあるが、同時に無茶な徴用、徴兵、所謂重点主義等の経済関係のデリカッシーを知らざる政府のためにここに至ったのだ。日本はいよいよ国内的に行きつまって来た。これがどこにどう出るかが次の問題だ。
○官僚主義、統制主義の欠点は、日本のおける数年の実験によって完全に明らかにされた。・・・統制主義、官僚主義は日本を亡ぼす。
日本は泥棒国となった。「神国」である国は、しかし泥棒であっても差し支えないのである。・・・泥棒は常時の姿となった。今後ますますひどくなるであろう。
ラジオや新聞には、戦争観につき―たとえば米国の戦力につき「楽観も悲観も禁物である」といった表現が流行している。なにも考えるなということなのだろう。
○日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当たったのだろう。おそらく数十人を出でまい。秘密主義、官僚主義、指導者原理というようなものがいかに危険であるかがこれでもわかる。来るべき組織においては言論の自由は絶対に確保しなければならぬ。また議員選挙の無干渉も主義として明記しなけれ
ばならぬ。官吏はその責任を民衆に負うのでなくては行政は改善できぬ。・・・我国における弱味は将来、この戦争が国民の明白な協力を得ずして、始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実戦争を欲したのであるが。この時代の特徴は精神主義の魔力だ。米国の物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は「自由主義」「個人主義」で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本には日本精神があって数学の上では現わし得ない奇蹟をなし得ると考えた。それが戦争の大きな動機だ。
○重臣と閣僚の間でも真実を話さない。日本には正直に政治を語る機会は全くないのである。これが大東亜戦争以前から日本の特徴だ。日本を動かしつつあるは憲兵と警察である。そしてその背後にあるは軍部である。
○七月二十九日号の『東洋経済』は石橋君の筆として「東条内閣は民心を喪い、広く天下の人材から見放された」と書いている。これだけ書けるのは石橋君以外にはなし。
○米内は組閣終了の当日、記者との会談で「軍人は不具の教育を受けてきた」といった。総理大臣が軍人、満洲大使、朝鮮総督、台湾総督は何れも軍人、実際政治を運用しているのが軍人、これで日本がうまくいく道理なし。無智が指導しては。日本の重要職業、会社、官吏は全部軍人で占領。首相,海相、東京市長、翼賛会,翼壮団長、総て、然り。
○陸軍の発表が出鱈目であることは左の数字でも分る。すなわち本土襲来のB29を百二十機を撃破したというのである。東京の制空権は今や敵軍に渡った。敵はいつでも日本を襲うことができる。しかも極めて安全である。
★昭和20(1945)年、敗戦の年、亡国の年
○日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を讃美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは、「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか、それを今、彼等は味っているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。当分は戦争を嫌う気持ちが起ろうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
○日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界の一等国となることはできぬ。総べての問題はここから
出発しなくてはならぬ。日本が、どうぞして健全に進歩するように―それが心から願望される。この国に生れ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように―。「仇討ち思想」が、国民の再起の原動力になるようではこの国民に見込みはない。僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける.・・後世を目がけて努力しよう。
○教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ「技術」だけを習得した結果だ。彼等の教養は、義士伝以上に出でぬ。とくに「軍人」という中産階級以下の連中が大量に押し出したのである。戦争というものの「力」を思う。一晩の内に何十万戸を焼き尽くし、さらにその残ったものを一通の命令書で取りこわすのである。米国の戦後処分
案を待たずに、日本はすでに日清戦役以前の資産状態にかえりつつある。・・・戦争は文化の母であるか?
○官僚と軍人の政治というものが、こうも日本を滅茶にさせてしまったのだ、ああ。
○どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられて行っている。誰も戦争に飽いたことが察知される。
○この火事を見、火事と戦って、僕は何か憎くて痛憤した。怒り心頭に発すというのはこの事だろう。・・・「こんな戦争をやるのは誰だ」と、僕はこの愚劣な政治と指導者に痛憤していたのである。
○沖縄の戦争は、ほとんど絶望であるのは何人にも明瞭だが、新聞はまだ「神機」といっている。無論、軍部の発表によるものだ。国民は、愚かな田舎人でもこれを信じまい。誰も信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。
○日本は近代戦争などをしうる状態ではなかった。軍人は最後まで、「東京へは絶対に敵機を入れない」とか「麹町区には飛行機を入れない」といっていた。いま彼等は何という? しかし国民の軍人に対する反感は、嘘のように少ないと思う。軍部に関する批判は一切させないからである。そしていわれなければ気がつかないほど低劣だからだ。しかし永遠に気がつかないだろうか?
(抜粋 以上)
ああ、今日といかに似ていることか!!!
2009.04.27記 よしだ ごろう
※【参考HP】/「聖書案内」(経堂聖書会編集「若木」44号「井口喜源治と研成義塾の教育-ジャーナリスト清沢洌のこと」風間文子